山内豊範(読み)ヤマノウチ トヨノリ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「山内豊範」の解説

山内 豊範
ヤマノウチ トヨノリ


肩書
高知藩知事

生年月日
弘化3年4月15日(1840年)

出生地
土佐国高知城内(高知市)

経歴
安政6年山内容堂隠居と同時に家督を継ぎ、16代土佐藩主となる。文久2年江戸参勤の途上朝廷召命をうけて京に入り、京都警衛、国事周旋の内勅を受け、薩摩、長州と並んで勤王三藩と称せられた。同年勅使三条実美、副勅使姉小路公知が江戸に下る際、往復の護衛を勤める。藩政は隠居容堂の後見に拠って行い、幕府長州征伐には大坂警備に任じた。明治元年戊辰戦争では藩兵を東山道、東北に派遣、その戦功によって父と共に賞典禄4万石を下賜された。2年薩長肥の3藩主と連名して版籍奉還の奏請書を提出、高知藩知事に就任。4年廃藩置県後は東京に住み、銀行、鉄道などの事業に協力する傍ら私塾・海南学校を経営した。

没年月日
明治19年7月13日

家族
父=山内 豊資(12代土佐藩主) 養父=山内 容堂(16代土佐藩主)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

朝日日本歴史人物事典 「山内豊範」の解説

山内豊範

没年:明治19.7.11(1886)
生年:弘化3.4.17(1846.5.12)
幕末維新期,最後の土佐(高知)藩主(16代)。鵬羊と号す。12代藩主豊資の末子,13代豊煕,14代豊惇は実兄,第15代豊信(容堂)は従兄弟。嘉永1(1848)年,実兄の豊煕,豊惇が相次いで病没,土佐藩は存亡の危機に瀕した。南邸山内氏の豊信が豊資の末子豊範を養子にして本家に入り襲封,安政6(1859)年に豊信が安政大獄厄難に遭い隠居したため,豊範が襲封。文久2(1862)年,朝廷より国事周旋・京都警衛を命じられ,勅使大原重徳の江戸下向を護衛した。明治17年7月華族令により侯爵。

(福地惇)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山内豊範」の解説

山内豊範 やまうち-とよのり

1846-1886 幕末-明治時代の大名,華族。
弘化(こうか)3年4月15日生まれ。山内豊資(とよすけ)の6男。山内豊信(とよしげ)(容堂)が安政の大獄で隠居したため,安政6年土佐高知藩主山内家16代をつぐ。文久2年勅使大原重徳(しげとみ)を護衛して江戸におもむいた。明治17年侯爵。明治19年7月13日死去。41歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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