長州征伐(読み)チョウシュウセイバツ

デジタル大辞泉 「長州征伐」の意味・読み・例文・類語

ちょうしゅう‐せいばつ〔チヤウシウ‐〕【長州征伐】

幕末、江戸幕府が二度にわたり、長州藩を攻めた戦い。幕府は蛤御門はまぐりごもんの変を理由に、元治元年(1864)長州へ出兵したが、外国の連合艦隊の下関来襲で危機に立っていた長州藩が恭順したので戦わずに撤兵。のち、長州藩首脳のこの処置に不満を抱いた高杉晋作らの強硬派が恭順派を一掃、幕府に対抗する姿勢を示した。幕府は慶応2年(1866)長州再征を行ったが敗退し、撤兵。以後、幕府の権威は急速に失われた。

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精選版 日本国語大辞典 「長州征伐」の意味・読み・例文・類語

ちょうしゅう‐せいばつチャウシウ‥【長州征伐】

  1. 幕末、江戸幕府が長州藩に対して行なった制裁と武力攻撃。元治元年(一八六四尊攘派に打撃を与えるため、禁門の変での長州軍の皇居への発砲を理由に出兵。これに対し、四国艦隊砲撃事件以後保守派が台頭していた長州藩は、禁門の変の主謀者を処刑、恭順の意を表わし、幕府軍は戦わずに撤兵した(第一次征長)。この処置に不満を抱いた討幕派の高杉晉作らは馬関を中心に挙兵、奇兵隊ほか民兵諸隊により保守派を一掃して藩の主導権を握り、幕府に反抗した。幕府は慶応二年(一八六六)長州再征を行なったが、薩長連合のため薩摩藩は出兵を拒否し、洋式の兵器を備えた長州軍を相手に苦戦。将軍徳川家茂死後まもなく、小倉落城を機に撤兵(第二次征長)。以後、幕府の権威は急速に失われた。長州征討、幕長戦争、長州戦争ともいう。

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改訂新版 世界大百科事典 「長州征伐」の意味・わかりやすい解説

長州征伐 (ちょうしゅうせいばつ)

幕末期,江戸幕府が長州藩攻撃のために起こした戦争で,第1次は未発,第2次は倒幕運動の拠点長州との全面的な軍事対決となった。第1次征長,第2次征長ともいい,この第2次征長戦を長州側では四境戦争と呼ぶ。

1864年(元治1)7月18日の禁門の変(蛤御門の変ともいう)による長州軍の皇居内への発砲は,7月23日の長州追討の朝命となり,翌日,幕府は中国・四国・九州の21藩に出兵を命じ,また,その他の諸藩には京畿守備を命じた。そして,幕府は征長総督徳川慶勝(前尾州藩主)の指揮のもとに諸大名の部署を決め,征長軍を進めようとした。しかし,その足並みは必ずしもそろわなかった。一方,長州藩内では幕府への恭順を唱える保守派が台頭し,また,4国連合艦隊による下関砲撃などがなされ,この内憂外患のなかで藩内事情は複雑な様相を呈していた。この情況をみて征長軍の参謀・薩摩藩士西郷隆盛は,長州を死地に追い込むことを避け,長州藩の本・支藩の離間策や藩内の分裂化をすすめることによって,手を下さずして制圧することを主張した。西郷は一面では尊攘派の拠点長州をたたき,他面では幕府の権威回復を妨げようと意図していたのである。対する長州藩内の保守派は,支族吉川(きつかわ)経幹の周旋で,福原越後,益田右衛門介,国司(くにし)信濃の3家老と4参謀(宍戸左馬之介,佐久間佐兵衛,竹内正兵衛,中村九郎)を斬って幕府へ恭順の意を表した。そこで,幕府軍は戦わずして12月27日,撤兵令を下した。

長州藩が在長州の三条実美ら5卿を幕府側へ引き渡すことは征長軍撤兵の一要件であったが,それは実行されなかった。加えるに長州藩内では,1864年(元治1)末から翌65年(慶応1)初めにかけて高杉晋作らが馬関(下関)に決起し,藩の主導権を奪い,奇兵隊以下諸隊軍事力を背景に藩論を幕府との軍事対決の方向に定めた(1865年3月)。これをみた幕府は,長州藩が容易ならざる企てをし,外国商人との取引をしているなどの理由で長州再征を上奏し,65年9月勅許を得た。しかし,朝廷および諸藩には再征反対の空気が強く,とくに薩摩藩は出兵を拒否した。時あたかもイギリス,アメリカ,フランス,オランダの4国は,連合艦隊を兵庫沖に来航させ,兵庫の先期開港・条約勅許を要求した(10月,条約は勅許,兵庫先期開港は不許可)。66年6月,幕府軍と長州軍との戦闘は開始された。長州藩は,このときすでに薩長同盟を結んでいた(1866年1月)。また,藩内では高杉や木戸孝允らによって挙藩軍事体制が固められ,諸隊や農商兵を活用し,密輸入した近代兵器によって幕府軍に対処しようとしていた。芸州口での戦闘は一進一退であったが,石州口や小倉口方面では長州軍が幕府軍を圧倒した。しかも,幕府軍はその背後を大坂,江戸の打ちこわし百姓一揆に脅かされていた。物価騰貴と民衆の負担の増大は開港以来の傾向であったが,第2次征長戦はそれに拍車をかけ,社会的矛盾をさらに激化させたのである。幕府の敗北は決定づけられた。そこで幕府は,第14代将軍徳川家茂の大坂城での病没を機として,66年8月,休戦の朝議を得て,9月2日,長州藩と休戦協定を結んだ。同年12月の孝明天皇の急死を機会に解兵の沙汰書を得て,天下に布告した。この第2次征長の失敗は幕府の権威失墜の決定的要因となり,以後,幕府支配の崩壊は時間の問題となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長州征伐」の意味・わかりやすい解説

長州征伐
ちょうしゅうせいばつ

1864年(元治1)、1865~66年(慶応1~2)にかけて行われた幕府による征長出兵。長州藩では第二次征長を四境(しきょう)戦争とよぶ。

[吉本一雄]

第一次

1864年7月の蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)によって長州藩追討の名目を得た幕府は、尊攘(そんじょう)派に打撃を与える意図もあって、征長を表明し出軍した。征長総督には尾張(おわり)藩主徳川慶勝(とくがわよしかつ)、副将に越前(えちぜん)藩主松平茂昭(まつだいらもちあき)があたり、西郷隆盛(さいごうたかもり)が参謀として、長州藩に謝罪降伏せしめるべく画策した。

 長州藩では、禁門の変に敗退し、また四か国連合艦隊の下関(しものせき)砲撃にも敗れたことから、尊攘派にかわって保守俗論派が政権を握り、幕府に恭順の意を示した。その証(あかし)として、まず禁門の変の責任者として福原越後(えちご)、益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)、国司信濃(くにししなの)の3家老と4参謀の処刑、藩主毛利敬親(もうりたかちか)父子の謝罪、山口城の破却、八月十八日の政変(1863)後に長州藩に身を寄せていた三条実美(さんじょうさねとみ)以下5卿(きょう)の引き渡しなどの要求に応じた。これによって幕府は、出軍の目的を達したとして、同年12月に撤兵令を発した。

[吉本一雄]

第二次

翌1865年(慶応1)になると、長州藩では保守俗論派に対して、高杉晋作(たかすぎしんさく)が下関で挙兵し、諸隊の力を得て美祢(みね)郡大田・絵堂の内訌(ないこう)戦を戦い、俗論派にかわって正義派が政権を握り、藩論を武備恭順へと転換した。この方針に従って、大村益次郎(おおむらますじろう)を登用して軍制改革を実行し、特別資金であった撫育方(ぶいくかた)の貯蓄金を放出して銃器や艦船を購入し、装備の洋式化を図り、幕府の再征に備えた。

 一方幕府は、こうした長州藩の態度を詰問して、将軍家茂(いえもち)自ら江戸城を発して上洛(じょうらく)の途につき、1866年5月には10万石削封ほかを内容とする長州藩の処分を打ち出したが、長州藩は応ぜず、6月7日の大島口での戦闘を手始めに、6月14日には芸州口、16日には石州口、17日には小倉口(こくらぐち)と、いわゆる四境で幕府軍と長州軍の戦闘が開始された。結果は幕府軍の敗走に終わり、7月に家茂が大坂城で死去したことを契機に撤兵した。以降、幕府はその権威を失墜し大政奉還へと向かった。

[吉本一雄]

『小林茂著『長州藩明治維新史研究』(1968・未来社)』『田中彰著『明治維新政治史研究』(1963・青木書店)』『山口県地方史学会編・刊『日本の夜明け――山口県の明治維新』(1967)』

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百科事典マイペディア 「長州征伐」の意味・わかりやすい解説

長州征伐【ちょうしゅうせいばつ】

1864年および1866年に江戸幕府が長州藩に対して行った2度の征討。幕長(ばくちょう)戦争ともいう。第1次は,禁門の変で朝敵となった長州藩を罰するため出兵。四国連合艦隊の下関砲撃事件(馬関戦争)で打撃を受けていた長州藩は恭順派が藩権を握り,幕府に謝罪したため撤兵。しかし,決起した高杉晋作ら急進派が奇兵隊以下諸隊の軍事力を背景に藩庁を奪取し強硬な態度をとったため,幕府は1865年第2次征長を布告。翌年6月から戦闘に入ったがすでに薩長(さっちょう)同盟が結ばれており,幕府軍は各所で敗退,9月14代将軍徳川家茂(いえもち)の死を機会に撤兵。征討失敗で幕府の権威は完全に失墜。
→関連項目王政復古(日本)大村益次郎御用金西郷隆盛坂本竜馬中山忠光萩藩浜田藩

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長州征伐」の意味・わかりやすい解説

長州征伐
ちょうしゅうせいばつ

江戸時代末期,倒幕勢力の拠点であった長州を江戸幕府が攻撃した戦い。征長の役,幕長戦争ともいう。元治1 (1864) 年と慶応2 (1866) 年の2回にわたった。第1次征長は禁門の変で敗れた長州藩に対する追討であり,尾張藩主徳川慶勝を征討総督とした。長州藩は列国艦隊の攻撃で打撃を受けており,恭順派が藩論を支配して元治1年 12月に降伏。藩主父子は服罪した。第2次征長は慶応1 (1865) 年長州藩論が高杉晋作らの倒幕派によって再び掌握され,幕府との和平交渉も打ち切られたので,江戸幕府第 14代将軍徳川家茂みずから征討の指揮をとって,慶応2年6月から開戦となった。諸藩は開戦に消極的で,他方薩摩藩の後援を得た長州藩の士気は高く,幕府軍は敗戦を重ね,8月将軍の死去を理由に征長を中止,幕府の権威は失墜した。

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世界大百科事典(旧版)内の長州征伐の言及

【大村益次郎】より

…65年(慶応1)以後は,長州藩の実権を握った討幕派の指導者,木戸孝允,前原一誠らに重用され,西洋流の装条銃を中心とする近代的軍備を徹底させる慶応軍制改革に中心的役割を果たし,このころから農町兵の組織化を積極的に打ち出した。第2次長州征伐に際し,軍政用掛として軍略面を担当し,石州口軍事参謀として幕軍を敗走させ,全軍の作戦についても,大局観と現実性に秀でた戦略を提案し,軍政に不動の地位を得た。戊辰戦争には,新政府の軍務官,江戸府判事,鎮台府民政会計掛に任じられ,戦争終了後は,軍務官副知事,69年(明治2)兵部大輔となり,新政府の軍政を担当。…

【徳川慶勝】より

…62年(文久2)罪を許され,16代藩主義宜(よしのり)の後見として藩政の実権を掌中にするとともに,公武合体運動にも重きをなした。64年(元治1)の長州征伐には征長総督として広島に赴き寛大の処置をとったが,つづく再征には出兵を拒否して幕府不信を表明した。67年(慶応3)新政府議定職。…

【浜田藩】より

…松井氏時代は藩主康定,康任の好学もあり国学が興隆し,鈴屋門人録に士庶19名が名を連ね,小篠御野のような碩学も出た。1864年(元治1),66年(慶応2)の長州征伐にあたっては浜田藩は第一線となり,益田で戦ったが敗退し,66年7月18日浜田城は炎上落城した。藩主松平武聡は海路出雲に落ち松江藩を頼ったが,のち飛地の美作国鶴田(たづた)へ移った。…

※「長州征伐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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