山内量平(読み)ヤマノウチ リョウヘイ

20世紀日本人名事典 「山内量平」の解説

山内 量平
ヤマノウチ リョウヘイ

明治期の牧師 日本福音ルーテル教会牧師。



生年
嘉永1年(1848年)

没年
大正7(1918)年11月11日

出生地
紀伊田辺(和歌山県田辺市)

経歴
兄の死によって家業の酒造業を継ぐが、間もなく税吏と衝突して廃業を余儀なくされた。のち妹である植村冬野(キリスト教牧師植村正久の妻)の勧めに従い、37歳でヘイルより洗礼を受けてキリスト教に入信。明治20年に上京、宣教師らを相手に日本語の教師をしながら神学を学び、印刷事業を興すなどして義弟植村正久の活動に協力した。また、貧民救助会を結成して下町の貧民保護にも当たった。日本語の教え子であったルーテル教会の宣教師ピアリらの要請を受けて26年日本福音ルーテル教会最初の日本人牧師となり、ピアリに随行して佐賀県の開拓伝道に従事。39年には博多に移って博多協会の設立に尽力し、大正6年からは大阪での開拓伝道を行った。7年病を得て引退。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山内量平」の解説

山内量平 やまのうち-りょうへい

1848-1918 明治-大正時代の牧師。
嘉永(かえい)元年生まれ。植村季野(すえの)の兄。妹のすすめで受洗し,義弟植村正久の伝道誌刊行をたすける。福音ルーテル教会宣教師ピアリの日本語教師となり,佐賀の開拓伝道に同行,のち同教会最初の日本人牧師となった。大正7年11月11日死去。71歳。紀伊(きい)田辺(和歌山県)出身

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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