山崎庄(読み)やまざきのしよう

日本歴史地名大系 「山崎庄」の解説

山崎庄
やまざきのしよう

現伊予市内にあったと思われる稲荷社領荘園吾川あがわ郷のうち山崎保田三五町余が、京都伏見稲荷社般若会供米料田として、山崎庄に立券されたことが仁平三年(一一五三)正月二八日の伊予国山崎荘立券文案(九条家本「中右記」部類巻一六裏文書)みえる。

<資料は省略されています>

なお山崎庄については蒙古来襲に戦功のあった河野通有がその賞として肥前肥後で所領を得たほか「猶予州ノ内山崎ノ庄彼是数ケ所ヲ賜」(「河野家譜」築山本)とあり、「伊予三島縁起」にも「伊与国山崎庄、同風早五郷屋敷分給之 永仁五年十二月十四日、通有代」とある。

山崎庄
やまさきのしよう

現岩出町西部にあった大伝法だいでんぼう院領の荘園。石手いわで庄・弘田ひろた庄の西側に位置する。長承元年(一一三二)頃、大伝法院(覚鑁)に寄進され、同年一〇月三〇日の院庁牒により、一一月一六日院使・国使らが立券言上して成立(同日付「立券文案」根来要書、以下同書による)畠井はたい(現畑毛)・名陵・いち三村よりなり、畠井村・名陵村は平光昌の相伝私領、市村は金剛峯寺前入寺僧慶義の所領であった。ともに国司や在庁官人との間に抗争があり、覚鑁に対する鳥羽上皇の深い帰依をみて大伝法院に寄進し、実質的な得分を確保しようとしたものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報