石手庄(読み)いわでのしよう

日本歴史地名大系 「石手庄」の解説

石手庄
いわでのしよう

現岩出町南部にあった大伝法だいでんぼう院領の荘園。東は岡田おかだ庄、南は紀ノ川、西は山崎やまさき庄、北は弘田ひろた庄。字訓からすれば「いしで」かもしれないが、江戸時代以降岩手(出)の字を用いるので、「いわで」としておく。

大治元年(一一二六)七月日の平為里私領寄進状案(根来要書、以下同書による)によれば、為里は那賀郡河南かなん院字石手村、「限東岡田村西堺并沼田畠、限南大河、限西市村東堺、限北弘田庄南境」の地を、下司職留保を条件に、高野山正覚房聖人(覚鑁)に寄進した。この四至のうち西限をいち村東境とするが、石手庄と市村の間には畠井はたい(現畑毛)があったはずで、問題が残る(→山崎庄。年未詳であるが、文書相伝次第によると、当庄は荒川権大夫・郡司日置為世(先祖相伝)・伴兼時(長暦二年一一月二日召渡)・紀利任(弘田庄前司)と伝わり、利任は永保元年(一〇八一)頃不慮の事件で逃散、その際公験を庭田庄司伴時通に預け、時通は文書を入質して出挙米を藤原公里から借りたが弁済しえなかったので寛治五年(一〇九一)一二月二二日当庄は公里の手に移り、その公里から為里が相伝したという。

ところで大治元年の寄進当時、覚鑁は高野山上に伝法会の再興を発願していたものの一介の聖にすぎず、為里が「致随喜」して寄進する、というのはきわめて異例である。「大伝法院本願上人霊瑞並寺家縁起」が、稲荷社の託宣を受けて覚鑁が紀ノ川の傍らで石手庄の文書を拾得し、為里に返却してやったことが動機であると記すような因縁があった可能性が高い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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