山崎津(読み)やまさきのつ

日本歴史地名大系 「山崎津」の解説

山崎津
やまさきのつ

山崎にあり、淀川に面した港と港町の名称。

長岡京遷都とともに水陸交通の要地として山崎の位置は重要になり、山崎橋が架けられたが、長岡京造営物資の陸揚地として、山崎津が営まれたと思われる。延暦六年(七八七)八月二四日、桓武天皇は「高椅津」に行幸し、帰途大納言藤原継縄宅に立ち寄ってその室百済王明信を従三位に叙している(「続日本紀」同日条)が、高椅は山崎橋で、高椅津はその袂にあった山崎津であろう。大同元年(八〇六)九月二三日には、使を遣わして左右京および山崎津、難波なにわ(現大阪市)の酒家の甕を封じている。炎旱による米価騰貴を押えるためである(「日本後紀」同日条)。すでに都は平安京に去っていたが、淀川の水運は山崎津で乗船し、平安京の外港として賑いをみせていたものと思われる。斉衡二年(八五五)一〇月一八日には山崎津頭で火事があり、三〇〇余家を延焼した(「文徳実録」同日条)


山崎津
やまさきのつ

山崎にあった淀川の古代の港津。淀川水系の水上交通の要地であった山崎は、長岡ながおか京遷都によってさらに重要性をまし、長岡京造営物資の陸揚地として、津が営まれたと思われる。延暦六年(七八七)八月二四日、桓武天皇は「高椅津」に行幸し、帰途大納言藤原継縄宅に立寄っている(「続日本紀」同日条)が、高椅は山崎橋で、高椅津はその袂にあった山崎津のことであろう。大同元年(八〇六)九月二三日、当時都は長岡から平安京に遷っていたが、使を遣わして左右京および山崎津・難波津の酒家の甕を封じている。炎旱による米価騰貴を抑えるためであったが(「日本後紀」同日条)、当地の賑いを思わせる。ちなみに斉衡二年(八五五)一〇月一八日に山崎津頭で火事があり、三〇〇余家が延焼(「文徳実録」同日条)、仁和二年(八八六)二月二〇日にも、居民廬舎数十宇が焼けており(「三代実録」同日条)、港の近辺に多くの民家が立並んでいたことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の山崎津の言及

【田楽】より

…また《日本紀略》長保元年(999)4月10日条には,京都松尾社の祭礼に山崎の津人による田楽が恒例として演じられ,このとき大がかりな喧嘩のあったことが記されている。淀川河原の山崎津(やまさきのつ)は,芸能者などの集まる散所(さんじよ)の一つといわれ,この田楽は専業芸能者の所演であったと思われる。当時,祭礼奉仕の職業芸能者は座を結成して社寺への勤仕権を確保するのが通例であったが,田楽においても同様で,平安時代末期には複数の田楽座が結成されていた。…

※「山崎津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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