日本歴史地名大系 「大山崎」の解説
大山崎
おおやまざき
「日本書紀」白雉四年是歳条に「是に由りて、天皇、恨みて国位を捨りたまはむと欲して、宮を山碕に造らしめたまふ」とある。当時難波
天平一三年(七四一)の東大寺奴婢帳(東南院文書)には「乙訓郡山埼里」が所見し、乙訓郡条里の南端にあたり、山崎は里名に用いられた。淀川に架ける橋は「行基年譜」に現れ、次いで長岡京造営とともに朝廷によって架橋・管理された。平安時代に入って山崎駅が置かれ、山崎津は長岡京・平安京の外港となった。一方、山崎関も置かれたが、大宝律令以来関の場所は摂津国とされ、山崎駅が史料に現れる弘仁初年にはすでに廃絶していた。
橋・津・駅の所在によって山崎の集落はしだいに賑いをみせ、斉衡二年(八五五)には火事で三〇〇余家を焼いたという(文徳実録)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報