( 1 )法隆寺五重塔の解体修理に際して、万葉仮名で書かれた[ 一 ][ 二 ]の歌の断片が発見されたところから、この歌が古くから普及していたものと考えられる。
( 2 )[ 一 ][ 一 ]を詠んだ歌は「万葉集」には四例あるが、八代集では二例のみで、「後拾遺集」以下全く詠まれず、歌語「難波江」と対照をなす。
( 3 )その一方で[ 一 ][ 二 ]の解説中に挙げた「なにはづの歌」によってその生命力を維持することになる。散文の中で多く「手習いの歌」の謂で用いられ、転じて[ 二 ]の「和歌の道」を指す語として後世へ生き延びる。
近世に大和川が付替えられるまで大和川と淀川は難波の北東方で合流し、
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難波御津・難波三津之浦とも。古代,摂津国にあった港津。比定地は現在の大阪市中央区三津寺(みつでら)付近とする説,同区高麗橋(こうらいばし)付近とする説の二つが有力。瀬戸内海に臨み,外国使節の迎接,遣隋使・遣唐使の発船などが行われ,また海上交通による国内物資の集散地ともなるなど,古代国家の外港として発展。律令制下,この地が摂津職によって統治されたのもその重要性のゆえである。のち土砂の堆積が進み港津としての機能が低下し,785年(延暦4)の神崎川(三国川)開削によって淀川と瀬戸内海が短距離で結ばれると,その繁栄は河尻泊・江口・神崎へと移った。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…《日本書紀》には崇神天皇が〈船は国の要用なり〉と勅したとあり,また《古事記》には仁徳天皇のとき住之江(現,大阪市)に津を定むとある。記紀の記述の真偽はともかく,大宰府の外港として那津(なのつ)(現,博多港),畿内の門戸として難波津(なにわづ)(現,大阪市上町台地周辺)が開かれ,さらに瀬戸内海の沿岸にいくつかの泊が整備され,これらを重要交通軸として国の内外の交流が盛んに行われ,日本の国が形成されていったことは確かである。 古代の海運は手こぎが主で,後に帆を併用するようになったといわれる。…
…西国諸国から海上輸送された物資は,平安時代には与等津(よどつ)(現在の京都市伏見区淀町付近)で陸揚げされたので,与等津は平安京の外港としての役割を果たした。奈良時代までは,大阪市の上町(うえまち)台地西方にあった難波津(なにわづ)がもっとも重要な港湾であり,遣唐使の出帆港であり,また外国からの使節もここに到着した。大宰府の外港は娜大津(なのおおつ)(那津(なのつ))であり,付近には蕃客を接待する鴻臚館(こうろかん)(筑紫館)が設営された。…
…摂津国は大宝令制では特別行政区として摂津職(せつつしき)の管理下にあり,この官司の長官である大夫(たいふ)の職掌には,一般の国守の職掌にはみえない,港湾や船舶の管理また交易に関係して市場や度量衡の監督が規定されている。これは大化前代からの重要な港として難波津が存在し,朝鮮半島や中国大陸との外交事務や,難波市における交易に関係していたことによる。摂津国,津国の名称も難波津,武庫津の管理という意味からの呼称であり,その名称の成立は,半島や大陸との関係また国家支配の整備状況から推すと,6世紀以後と考えられる。…
…〈なにわ〉の語源には,上記《日本書紀》説以外に魚庭(なにわ)(魚の多い所)と解する説もある。浪速(花)之渡は難波済(《日本書紀》),難波之大渡(《古事記》)とも書かれるが,難波津と書くのが普通である。その位置については諸説あるが,上町台地の西麓から1km余り西の大阪市南区三津寺町付近とするのが有力である。…
※「難波津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
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