難波津(読み)ナニワヅ

デジタル大辞泉 「難波津」の意味・読み・例文・類語

なにわ‐づ〔なには‐〕【難波津】

上代、難波江にあった港。また、大阪港の古名。[歌枕]
「千鳥鳴くふけひの潟を見渡せば月影さびし―の浦」〈聞書集〉

王仁わにが詠んだという「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」の和歌。幼児の手習いの最初に習わせた。難波津の歌。
「―をだに、はかばかしう続け侍らざめれば」〈・若紫〉
和歌の道。和歌。

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精選版 日本国語大辞典 「難波津」の意味・読み・例文・類語

なにわ‐づ なには‥【難波津】

[1]
[一] 古代、難波江にあった港。海外との交通が開けるとともに、海路の要港として栄えた。墨江(住吉)の津・大伴の御津などが含まれた。
※万葉(8C後)二〇・四三三〇「奈爾波都(ナニハツ)に装(よそ)ひ装ひて今日の日や出でて罷らむ見る母なしに」
[二] 王仁(わに)が詠(よ)んだという「難波津に咲くや此の花冬ごもり今は春べと咲くや此の花」の歌の称。浅香山の歌とともに手習いの始めに用いたので、手習いの初歩の意味にもいう。
※源氏(1001‐14頃)若紫「まだなにはづをだに、はかばかしく続け侍らざめれば、かひなくなん」
[2] 〘名〙 ((一)(二)から転じて) 和歌の道。難波津の道。
明衡往来(11C中か)中本「頻雖消息響応之気。一日以難波津古風之」
[語誌](1)法隆寺五重塔の解体修理に際して、万葉仮名で書かれた(一)(二)の歌の断片が発見されたところから、この歌が古くから普及していたものと考えられる。
(2)(一)(一)を詠んだ歌は「万葉集」には四例あるが、八代集では二例のみで、「後拾遺集」以下全く詠まれず、歌語「難波江」と対照をなす。
(3)その一方で(一)(二)の解説中に挙げた「なにはづの歌」によってその生命力を維持することになる。散文の中で多く「手習いの歌」の謂で用いられ、転じて(二)の「和歌の道」を指す語として後世へ生き延びる。

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日本歴史地名大系 「難波津」の解説

難波津
なにわのつ

近世に大和川が付替えられるまで大和川と淀川は難波の北東方で合流し、上町うえまち台地の北を通って大阪湾に流入したが、古代では上町台地の東方に大きな潟湖をつくり、上町台地の西方には三角洲を形成して、本流と多くの分流があったと考えられる。船の着く津はその各所にあり、総称して難波津という。文献上では「古事記」応神天皇段、「日本書紀」仁徳天皇六二年五月条、允恭天皇四二年正月条などにみえるのが早い例であるが、津のほかにわたり(済)とよばれる所もあり、「浪速渡」(「古事記」神武天皇段)・「難波之大渡」(同仁徳天皇段)・「難波済」(「日本書紀」仁徳天皇三〇年九月条)が知られる。渡は「播磨国風土記」賀古郡条にみえる高瀬たかせ(現守口市)の例などからすると、川を横切る渡船場と解され、難波の渡は淀川本流(現大川)を渡る地点と考えられる。これらの渡も津の一種であるが、多くの津のうちで最も主要なものが難波の御津(三津)であろう。「日本書紀」仁賢天皇六年九月条に「女人有り、難波御津に居て哭く」とあり、斉明天皇五年七月条所引の「伊吉連博徳書」に「己未年七月三日を以て、難波の三津の浦より発す」とある。また天平五年(七三三)閏三月に笠金村遣唐使に送った歌に「(上略) 難波潟 三津の崎より 大船に 真梶繁貫き(下略)(「万葉集」巻八)とあり、天平勝宝七年(七五五)大伴家持が防人の心をいたんで作った歌に「(上略) 芦が散る 難波の御津に 大船に 真櫂繁貫き(下略)(「万葉集」巻二〇)とある。

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百科事典マイペディア 「難波津」の意味・わかりやすい解説

難波津【なにわのつ】

古代の大阪湾岸にあった港津。近世に大和(やまと)川の流路が付け替えられるまで大和川と淀川難波の北東方で合流し,上町(うえまち)台地の北を通って大阪湾に流入したが,古代では上町台地の東方に大きな潟湖をつくり,上町台地の西方には三角洲を形成して,本流と多くの分流があったと考えられる。船の着く津はその各所にあり,総称して難波津という。多くの津のうちで最も主要なものが〈難波の御津(三津)〉で,《日本書紀》仁賢6年9月条や斉明5年7月条,《万葉集》の笠金村(巻8),大伴家持(巻20)の歌などにみえる。難波津は7―8世紀に大いに栄えたが,淀川の運ぶ土砂によって次第に港が浅くなり,機能が低下した。さらに785年に淀川と三国川(現在の神崎川)とを結ぶ工事が行われて以後は,瀬戸内海を航行する船はおもに河尻(かわじり)および連絡点の江口(えぐち)を経由して淀川に入り,難波津の繁栄は江口と河尻に移った。御津の所在地については諸説あるが,現在の大阪市中央区三津寺(みってら)町付近とする説が有力である。
→関連項目難波京

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改訂新版 世界大百科事典 「難波津」の意味・わかりやすい解説

難波津 (なにわづ)

古代の港。飛鳥時代から奈良時代にかけて最も重要な港で,難波御津(なにわのみつ)とも呼ばれた。現在の大阪市中央区の御堂筋三津寺町付近に比定される。摂津国という名はこの津に由来し,摂津職という官職によって管理された。遣唐使などの使節がここから出帆し,また外国からの使いもこの港に到来した。西国に派遣された防人(さきもり)は,この港に参集し,そこから任地に向かった。難波京の造営も難波津の立地と関連する。
難波
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「難波津」の解説

難波津
なにわづ

難波御津・難波三津之浦とも。古代,摂津国にあった港津。比定地は現在の大阪市中央区三津寺(みつでら)付近とする説,同区高麗橋(こうらいばし)付近とする説の二つが有力。瀬戸内海に臨み,外国使節の迎接,遣隋使・遣唐使の発船などが行われ,また海上交通による国内物資の集散地ともなるなど,古代国家の外港として発展。律令制下,この地が摂津職によって統治されたのもその重要性のゆえである。のち土砂の堆積が進み港津としての機能が低下し,785年(延暦4)の神崎川(三国川)開削によって淀川と瀬戸内海が短距離で結ばれると,その繁栄は河尻泊・江口・神崎へと移った。

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世界大百科事典(旧版)内の難波津の言及

【港湾】より

…《日本書紀》には崇神天皇が〈船は国の要用なり〉と勅したとあり,また《古事記》には仁徳天皇のとき住之江(現,大阪市)に津を定むとある。記紀の記述の真偽はともかく,大宰府の外港として那津(なのつ)(現,博多港),畿内の門戸として難波津(なにわづ)(現,大阪市上町台地周辺)が開かれ,さらに瀬戸内海の沿岸にいくつかの泊が整備され,これらを重要交通軸として国の内外の交流が盛んに行われ,日本の国が形成されていったことは確かである。 古代の海運は手こぎが主で,後に帆を併用するようになったといわれる。…

【水運】より

…西国諸国から海上輸送された物資は,平安時代には与等津(よどつ)(現在の京都市伏見区淀町付近)で陸揚げされたので,与等津は平安京の外港としての役割を果たした。奈良時代までは,大阪市の上町(うえまち)台地西方にあった難波津(なにわづ)がもっとも重要な港湾であり,遣唐使の出帆港であり,また外国からの使節もここに到着した。大宰府の外港は娜大津(なのおおつ)(那津(なのつ))であり,付近には蕃客を接待する鴻臚館(こうろかん)(筑紫館)が設営された。…

【摂津国】より

…摂津国は大宝令制では特別行政区として摂津職(せつつしき)の管理下にあり,この官司の長官である大夫(たいふ)の職掌には,一般の国守の職掌にはみえない,港湾や船舶の管理また交易に関係して市場や度量衡の監督が規定されている。これは大化前代からの重要な港として難波津が存在し,朝鮮半島や中国大陸との外交事務や,難波市における交易に関係していたことによる。摂津国,津国の名称も難波津,武庫津の管理という意味からの呼称であり,その名称の成立は,半島や大陸との関係また国家支配の整備状況から推すと,6世紀以後と考えられる。…

【難波】より

…〈なにわ〉の語源には,上記《日本書紀》説以外に魚庭(なにわ)(魚の多い所)と解する説もある。浪速(花)之渡は難波済(《日本書紀》),難波之大渡(《古事記》)とも書かれるが,難波津と書くのが普通である。その位置については諸説あるが,上町台地の西麓から1km余り西の大阪市南区三津寺町付近とするのが有力である。…

※「難波津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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