秋田市の北方約二〇キロにある。かつては東西一二キロ、南北二七キロ、面積二二一・七三平方キロに及ぶ日本第二の大湖であった。北の米代川と南の雄物川によって運ばれた土砂が日本海沖合の
湖西部には
「三代実録」元慶二年(八七八)七月一〇日条に、元慶の乱に際し秋田城下で蜂起した蝦夷の「賊地」一二ヵ村の一として「方口」「方上」がみえる。この「方」はすなわち潟で、
八郎潟の呼称がみえるのは近世後期からで、古河古松軒の「東遊雑記」に「八郎沼」とあり、津村淙庵の「雪のふる道」に「水うみは八郎かたといふ。昔かたの八郎といふ人、生ながら神になりて、此みづうみをひらきて住はじめしより、かく名づけたるとぞ」とある。菅江真澄の「雪の道奥雪の出羽路」には「こゝのさかばかりの
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
秋田県西部,男鹿半島東部の潟湖。干拓前は面積220km2,最大水深4.7m,流域面積669km2の半鹹(はんかん)湖で,琵琶湖に次ぐ日本第2の湖であった。1957年以降の国営干拓事業により,現在の水域は八郎潟調整池と東西両承水路に限られ,面積48km2の淡水湖に変わった。南西端から日本海に通じる船越水道には防潮水門が設けられている。八郎潟は,縄文晩期の海進期には太平山地と男鹿島間の水道であったが,その後,雄物・米代両川の流出土砂などで両者が結ばれ,陸繫(りくけい)島になったため生じた海跡湖である。古くは大方,大潟と呼ばれ,八郎潟の呼称がみえるのは近世後期からである。中世初期には潟の結氷時に男鹿半島と湖東部の交通に潟が利用されていたが(《吾妻鏡》),近世には湖上交通のルートが開け,廻米輸送などに利用されていた。漁業の歴史も古く,近世初期には村地先の潟の専用権が確立され,ワカサギ,ハゼ,フナ,シラウオ,ボラ,ウナギ,シジミなどを冬季は氷下引網,秋季は打瀬(うたせ)網で漁獲した。氷下引網漁は秋田の商人高桑与四郎が信州諏訪湖の氷下漁法を学んで,考案・完成したもので,1804年(文化1)に与四郎は網1統から銀10匁の役銀取立てを秋田藩に進言し,藩から氷下漁業の取締りを命じられた。網数は同年に50統,55年(安政2)には90統に増加し,潟東部の村々が中心であった。1953年には漁業戸数2770戸,漁獲量6000tを数えたが,干拓の完成に伴なって激減し,調整池などでの小規模な漁業が行われるにすぎない。なお八郎潟漁労用具は重要民俗文化財に指定されている。
潟の開発計画は安政年間(1854-60)の渡辺斧松の八郎潟疎水計画にはじまり,その後幾多の計画がつくられたが,技術的・財政的困難から久しく実施されなかった。1957年オランダの技術と世界銀行の協力を得て,農林省は総事業費331億円で干拓事業に着工,64年に干陸式を行い,大潟村が誕生した。干拓計画は潟水面の約80%にあたる中央部157km2と周辺部15.6km2,その他を合わせて計174.3km2を干拓地とし,残りの水面は調整池および承水路とした。農地は大型で道路で囲まれた単位である。1農区は60ha,1枚の圃場(耕区)は約1.25haで1戸15ha所有する近代的大型機械化営農方式が計画され,74年までに580戸が入植した。95年の大潟村の人口は3311,759世帯で,就業人口の84%(1990)が農業に従事し,村域の95%が水田である。大型トラクター,コンバイン,カントリーエレベーターなどの農業機械が利用され,生産性の高い営農が行われている。また畑作ではアムスメロンや花卉の栽培,肉用牛の飼育も行われる。〈日本のモデル農村〉として名高く,国内外からの視察者が多い。
執筆者:北条 寿+多田 敦
秋田県西部,南秋田郡の町。人口6623(2010)。八郎潟東岸に位置し,東部承水路を隔てて大潟村に接する。町の大部分は西流する馬場目川の沖積地からなり,中央をJR奥羽本線と国道7号線が縦貫している。中心の一日市(ひといち)は近世に羽州街道の宿場町として栄え,馬場目川の渡船場でもあった。八郎潟の干拓以前はワカサギなどの佃煮製造が盛んであったが,干拓後生産量は低下している。干拓による増反地を含め圃場整備が進み,米作が基幹産業となっている。1976年に農村工業導入地域に指定され,電気機械工場などの誘致が行われている。秋田市の近郊にあたり宅地開発もすすめられている。副川神社には近世以来の伝統をもつ豊作祈願の願人踊が伝わる。
執筆者:佐藤 裕治
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秋田県中西部、南秋田郡の町。八郎潟の東岸に位置する。1956年(昭和31)一日市(ひといち)町と面潟(おもがた)村が合併して成立。JR奥羽本線、国道7号(羽州街道)が通じ、隣接する五城目(ごじょうめ)町に秋田自動車道の五城目八郎潟インターチェンジが設置されている。中心の一日市は江戸時代には羽州街道の宿駅、また市場町として栄えた。米作中心の農業が行われ、近年工場誘致も進んでいる。一日市の盆踊りは県内三大盆踊りの一つであり、願人(がんにん)踊とともに県指定無形民俗文化財。面積17.00平方キロメートル(一部境界未定)、人口5583(2020)。
[宮崎禮次郎]
『『八郎潟町史』(1977・八郎潟町)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…秋田県西部,八郎潟干拓により1964年に誕生した南秋田郡の村。村名は八郎潟の古名にちなむ。…
…秋田県北西部,八郎潟北部に位置する山本郡の町。人口7739(1995)。…
※「八郎潟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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