山野・山野郷(読み)やまの・やまのごう

日本歴史地名大系 「山野・山野郷」の解説

山野・山野郷
やまの・やまのごう

大口市北部、羽月はつき川上流部の大字山野一帯にあたる。

〔中世〕

山野は牛屎うしくそ院のうちとされ、牛屎院司牛屎(太秦)氏の一族のうちには山野を名乗るものがおり、太秦永元の三男は山野三郎を称した(「牛屎院系図」太秦文書)。建武三年(一三三六)六月日の薩摩国御家人和泉杉道悟軍忠状(都城島津家文書)には加世田城合戦に島津方として加わった軍のなかに牛屎山野彦四郎入道の名がみえる。文和二年(一三五三)三月五日の島津師久請文に添えられた薩摩宮方交名注文(旧記雑録)にも牛屎左近将監らと並んで山野孫次郎の名がある。永和三年(一三七七)一〇月二八日島津氏に対抗して南九州の国人の間で結ばれた一揆(永和大一揆)に牛屎山野の左衛門尉元詮も加わっていた(「一揆神水契状案」禰寝文書)。さらに応永二三年(一四一六)から同三二年の間に作成されたと思われる福昌寺仏殿造営奉加帳(旧記雑録)に山野因幡守頼元の名がみえる。いずれも牛屎氏の庶流で、山野を領したことから山野を称したのであろう。また遅くとも室町後期には山野城が築かれていたらしく、文明六年(一四七四)の行脚僧雑録(雲遊雑記伝)には「山野仁山野某」とみえる。なお旧記雑録所収の行脚僧雑録には「山野、羽月税所介別駕」と記す。同七年からの島津国久(薩州家)・季久(豊州家)の乱では、季久らは肥後相良氏、日向伊東氏らと結んで島津家当主忠昌と対立。同八年八月二二日、季久は相良氏に、「山野殿事、内々可然被申候」として山野城に番衆を入れることを勧めている(「島津季久書状」相良家文書)。山野熊野神社にある神体木像背面には延徳四年(一四九二)三月吉日「太秦氏元兼都京丸」などと記されており(大口市郷土誌)、この頃まで太秦(牛屎)氏が山野に勢力をもっていたのであろうか。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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