太秦(読み)ウズマサ

デジタル大辞泉 「太秦」の意味・読み・例文・類語

うずまさ〔うづまさ〕【太秦】

《古くは「うつまさ」とも。雄略天皇のとき、秦酒公はたのさけのきみが賜った禹豆麻佐うつまさに由来する》京都市右京区の地名。朝鮮から渡来したはた氏の居住した地で、氏寺として建立された広隆寺がある。昭和初期に映画産業の中心の一つとなり、現在は映画村がある。

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精選版 日本国語大辞典 「太秦」の意味・読み・例文・類語

うずまさうづまさ【太秦】

  1. ( 古くは「うつまさ」 )
  2. [ 一 ](はた)氏の姓。雄略天皇の時首長の秦酒公(さけのきみ)が絹を織って献上し、禹豆麻佐(うずまさ)の姓を賜わり、後に太秦の字をあてたという。松尾神社を氏神とし、広隆寺を氏寺とする。
    1. [初出の実例]「庸調の絹縑を奉献りて朝庭に充積む。因りて姓を賜ひて禹豆麻佐(ウツマサ)と曰ふ」(出典:日本書紀(720)雄略一五年(前田本訓))
  3. [ 二 ] 京都市右京区中部の地名。秦氏の一族が禹豆麻佐(うずまさ)の姓を賜わって居住したために呼ばれた。大正末から映画会社の撮影所の設置で知られる。広隆寺(太秦の太子堂)がある。
  4. [ 三 ] 京都市右京区太秦にある広隆寺をいう。

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日本歴史地名大系 「太秦」の解説

太秦
うずまさ

[現在地名]右京区太秦〈青木ヶ原町・青木元町・荒木町・石垣町・和泉式部町・一ノ井町・一町芝町・井戸ヶ尻町・乾町・馬塚町・奥殿町・面影町・海正寺町・垣内町・帷子かたびらつじ町・桂ヶ原町・桂木町・上刑部かみけいぶ町・上ノ段町・唐渡町・川所町・木ノ下町・組石町・御所ノ内町・小手角こてすみ町・下角田しもかくだ町・下刑部町・もと町・朱雀すじやく町・滝ヶ花町・巽町・棚森町・多藪町・垂箕山たるみやま町・辻ヶ本町・土本町・中堤町・西野町・西蜂岡町・野元町・袴田町・蜂岡町・八反田町・東唐渡町・東蜂岡町・樋ノ内町・藤ヶ森町・堀ヶ内町・前ノ田町・松本町・皆正寺みなせいじ町・森ヶ西町・森ヶ東町・森ヶ前町・門田もんだ町・百合ヶ本町〉

桂川の東北、北に双ヶ丘ならびがおか宇多野うたの鳴滝なるたきの山々をひかえ、西は嵯峨野さがのに続く地。

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改訂新版 世界大百科事典 「太秦」の意味・わかりやすい解説

太秦 (うずまさ)

京都市右京区の地名。現在は御室(おむろ)川の西側,双ヶ岡(ならびがおか)南西の東西約2km,南北約1.5kmの範囲の65町を指し,ほとんど全域が市街化している。北半部は低位洪積段丘上,南半部は沖積平野であり,京都盆地北西部最大の横穴式石室をもつ蛇塚古墳(史)などの前方後円墳や広隆寺は段丘端付近に立地している。太秦付近一帯は,平安京西郊にあたり,その造営に貢献した秦(はた)氏の根拠地と考えられている。秦氏はまた養蚕,機織の技術に優れていたといい,太秦東部の蚕ノ社がそれにちなむ。平安時代には主として広隆寺領であり,中世にかけては多くの貴族寺社の膝下の所領があった。幕末から明治にかけて開削された西高瀬川が東西に横切っており,その舟運を利用して運ばれた丹波材などの製材所をはじめ工場が多く,また東映太秦映画村がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「太秦」の意味・わかりやすい解説

太秦
うずまさ

京都市右京区の一地区。平安京遷都前から渡来人秦(はた)氏一族の居住した所。地名は酒公(さけのきみ)の姓、禹豆満佐(うずまさ)に由来する。秦河勝(かわかつ)が建立した広隆寺(こうりゅうじ)には、京都最古の仏像の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像をはじめ、国宝、重要文化財の仏像が蔵されている。JR山陰本線、京福電鉄嵐山(あらしやま)線が通じ、現在は右京区役所があり、洛西(らくせい)工業地域として、機械、染色などの諸工業が発達する。また日本の映画産業の一中心をなし、東映撮影所に置かれた映画村は観光客の人気を集めている。

織田武雄

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百科事典マイペディア 「太秦」の意味・わかりやすい解説

太秦【うずまさ】

京都市右京区の一地区。古代,渡来人の秦(はた)氏一族の居住地で,秦河勝が創建した広隆寺がある。京福電鉄嵐山線が通じ,映画の撮影所があり,製材工場も多い。
→関連項目右京[区]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「太秦」の意味・わかりやすい解説

太秦
うずまさ

京都市右京区の一地区。旧村名。 1931年京都市に編入。地名は,朝鮮半島から渡来した秦 (はた) 一族がここに住んでいたことに由来。弥勒菩薩で有名な広隆寺がある。西高瀬川沿いには江戸時代以来,製材所が多い。映画撮影所があり,75年観光用の映画村が開設された。近郊農業地域であったが,近年は市街地化が著しい。

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世界大百科事典(旧版)内の太秦の言及

【鳴滝組】より

…その意味では戦後のフランスの〈ヌーベル・バーグ〉,とくに映画研究誌《カイエ・デュ・シネマ》の批評家出身のグループに似た存在であったかと思われる。当時,鳴滝の近くの太秦(うずまさ)や嵯峨には,日活,帝キネ,千恵蔵プロ,マキノ,寛寿郎プロの撮影所があり,8人はそれぞれ所属の撮影所は違ったが,お互いにその仕事を助け合った,と脚本家の三村伸太郎は述懐している。 〈梶原金八〉の名で彼らがめざしたものは,時代劇と現代劇が画然と区別されていた当時の〈時代劇映画の窮屈な形式から自由になること〉で,〈せりふは思いきって平明な現代語〉を使い,〈映画の題材に転換をこころみ〉,〈偶像化された英雄主義から,庶民が主体性をもつ〉新しい時代劇を生み出すことであった。…

【日本映画】より

…その後,東京向島に新スタジオを建てて目黒を閉鎖(1913),また京都でも法華堂から大将軍の新スタジオに移って(1916),以後,向島・大将軍の時代がつづいたが,関東大震災後,向島撮影所が閉鎖された(1923)。やがて大将軍撮影所が京都太秦(うずまさ)多藪町の新スタジオへと移転し(1929),東京調布の元日本映画株式会社の多摩川撮影所を買収(1934),日活は太秦・多摩川の時代に入った。しかし,42年,戦時下の映画新体制による統制によって,日活は大映(大日本映画製作株式会社)へと統合され,太秦撮影所,多摩川撮影所ともに大映撮影所となった。…

【秦氏】より

…その際,本宗家は大和でなく,山背(やましろ)国の葛野(かどの)郡,紀伊郡を基盤としていた。《姓氏録》にも山城国諸蕃に秦忌寸,左京諸蕃に太秦宿禰を記している。太秦(うずまさ)とは,酒公が朝廷に絹をうず高く積んだのでその名があるというが,山背より京に本貫を移した秦氏の別称であろう。…

※「太秦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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