日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡本半介」の意味・わかりやすい解説
岡本半介
おかもとはんすけ
(1575―1657)
近世初期の兵学者、上泉(かみいずみ)流の軍配兵法(ぐんばいへいほう)の大家。名は宣就(のぶなり)、石上氏を称し、喜庵(きあん)と号した。その先は上州甘楽(かんら)地方(群馬県甘楽郡)の名族小幡下総守(おばたしもうさのかみ)に仕え、1559年(永禄2)武田信玄(しんげん)の上州進出後はその配下にあり、1582年(天正10)武田の滅亡により浪人したという。1590年小田原北条(ほうじょう)氏の没落、徳川家康の関東入部、ついで井伊直政(なおまさ)が箕輪(みのわ)(高崎市)12万石に封ぜられると、半介父子は召し出されて井伊氏の家臣に加えられ、翌年半介は17歳で直政の近習(きんじゅ)となった。1600年(慶長5)関ヶ原の戦い後、佐和山城主となった直政に従って彦根(ひこね)に移り、1602年上泉常陸介氏胤(ひたちのすけうじたね)(信綱の子。異説がある)から上泉流兵学の伝授を受け、ついで大坂冬、夏の陣に2代直孝の旗下で活躍し、抜群の功により2000石を知行(ちぎょう)し、累進して家老職を勤めた。この間、同藩の兵法師範として、軍配兵法の古伝を集大成した『訓閲集(きんえつしゅう)』をはじめ多数の伝書を編述し、軍配兵法の正脈をその子孫に伝えるとともに、藩内の門下や小幡景憲(かげのり)らにも教授した。
[渡邉一郎]
『石岡久夫著『日本兵法史 上』(1972・雄山閣出版)』▽『石岡久夫著『兵法者の生活』(1981・雄山閣出版)』