日本歴史地名大系 「岩井沢村」の解説 岩井沢村いわいざわむら 福島県:田村郡都路村岩井沢村[現在地名]都路村岩井沢都路村の西部、五十人(ごじゆうにん)山・鎌倉(かまくら)岳・鳴子(なるこ)山と連なる阿武隈高地の分水嶺の東斜面の高原地域。鎌倉岳を源とする古道(ふるみち)川が東流し、都路街道(国道二八八号)が中央を東西に走り、字楢梨子(ならなし)で分岐した道(国道三九九号)が掛札(かけふだ)峠を経て葛尾(かつらお)村(現葛尾村)へ抜ける。字平内地の日鷲(へいないちのひわし)神社前に建つ村名碑によれば、村名は湧出する岩清水に由来するという。縄文時代前期から平安時代にかけての一五の遺跡があり、大槻(おおつき)地区の小保内(こぼうち)遺跡や言神(いうかみ)地区の言神B遺跡からは、奈良から平安時代の土師器や須恵器が出土し、竪穴住居跡も確認される。五十人山には坂上田村麻呂の将兵五〇人を乗せた五十人石の伝説がある。弘和元年(一三八一)田村則義は南朝方にくみし、平内地地区字中里(なかさと)に十万(じゆうまん)館を築いたという。十万館跡付近には馬場(ばば)・館の下(たてのした)・西の内(にしのうち)・的場(まとば)・侍畑(さむらいばたけ)などの地名がある。田村氏を頼って下向した南朝の後裔熊野宮信雅親王は、文明一一年(一四七九)標葉氏を頼って大高倉(おおたかくら)(現浪江町)に移り、長享元年(一四八七)五十人山北麓の野川(のがわ)村(現葛尾村)の高野(たかの)城に再遷し、明応元年(一四九二)の標葉氏滅亡後、熊沢現覚と改め、当村内大槻地区の吉田一族に庇護されたという(都路村史)。このほか字下田(しもだ)に岩井沢城跡があり、土塁・空堀の遺構が残り、陣場(じんば)・陣馬山(じんばやま)・陣馬松などの関連地名があるという(福島県の中世城館跡)。 岩井沢村いわいざわむら 山形県:西置賜郡小国町岩井沢村[現在地名]小国町岩井沢・緑町(みどりちよう)・兵庫舘(ひようごだて)小国町村の南東、横(よこ)川右岸にある。天文二二年(一五五三)の晴宗公采地下賜録に「かミゆハひさハ在家一間」「下ゆハひさハ一間」「からおけさいけ」などがみえ、上郡山民部大輔に加恩として与えられている。「からおけ」在家は小字唐桶(からおけ)のことと思われる。正保郷帳に村名が載り田高三三二石余・畑高六〇石余、上杉領村目録では高一千五二石余、本免一ツ九分七厘九毛余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by