日本歴史地名大系 「岩部村」の解説 岩部村いわべむら 千葉県:香取郡栗源町岩部村[現在地名]栗源町岩部荒北(あらきた)村・苅毛(かりけ)村の東に位置し、栗山(くりやま)川によって作られた狭小な浸食谷に集落が発達する。南は西田部(にしたべ)村。中世は岩部郷とよばれた。天正一八年(一五九〇)八月矢作(やはぎ)城(現佐原市)城主鳥居元忠領となった(安興寺文書)。慶長四年(一五九九)の矢作縄では高六六二石余(「部冊帳」伊能家文書)。寛永二年(一六二五)の知行宛行状によると、当村六六二石余などが旗本江原氏に与えられている。江原氏の知行は幕末まで続き、江戸時代後期には幕府領との相給となっている(弘化二年関東取締出役控帳など)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分などではほかに安興(あんこう)寺領がある。延宝八年(一六八〇)の屋敷帳(岩部区有文書)では屋敷数八八、ほかに寺院二。享保一六年(一七三一)の新田検地帳(同文書)では野馬入西野(にしの)・東野で四六町余・高四六石余、野馬不入大関(おおぜき)で一四町余・高二九石余が打出された。 岩部村いわべむら 兵庫県:神崎郡香寺町岩部村[現在地名]香寺町岩部行重(ゆきしげ)村の東、市(いち)川の右岸に位置する。村内を恒屋(つねや)川が南流する。「播磨国風土記」神前(かんざき)郡の条にみえる的部(いくはべ)里、「和名抄」に載る神崎郡的部郷の遺称地とされる。神東(じんとう)郡宮脇(みやわき)村(現姫路市)正八幡神社の天正一九年(一五九一)九月一日の祭礼奉納神事相極次第(正八幡神社文書)に岩部村とみえる。慶長国絵図には岩辺村と記される。正保郷帳では田方二八一石余・畑方三〇石余、「新田有」と注記される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by