日本歴史地名大系 「岸川村」の解説 岸川村きしがわむら 佐賀県:多久市岸川村[現在地名]多久市北多久町(きたたくまち)多久原(たくばる) 岸川天(てん)山山系の南麓、山あいの集落。天山を源とする今出川は、この集落の傍らをほとばしって流れる。「長崎みるなら岸川をみれ」のことわざがあるように、階段状に民家が並び、前方は今出川を中心に扇状地が広がっている。慶長絵図には、「上多久ノ内」として「岸川」の名がある。「丹邱邑誌」の承応二年(一六五三)書出には小城(おぎ)郡多久庄の中に「岸川村」がある。 岸川村きしかわむら 佐賀県:佐賀市新庄郷岸川村[現在地名]佐賀市鍋島町(なべしままち)大字蛎久(かきひさ)字岸川新庄(しんじよう)郷の北端にある。近世初期に築かれた嘉瀬(かせ)川の石井樋(いしいび)によって分流された多布施(たふせ)川と嘉瀬川の分流点に位置し、両川の堤防の南に立地する。文保二年(一三一八)の北条随時の鎮西下知状(河上神社文書)によれば、岸川次郎四郎種安に河上(かわかみ)神社の塔婆修理を免田五段の分限によって命じているが、この岸川氏がこの地を領していたと考えられる。 岸川村きしがわむら 石川県:金沢市旧河北郡地区岸川村[現在地名]金沢市岸川町八幡(やわた)村の北に位置。北陸街道が通る。「天文日記」天文一一年(一五四二)九月二三日条に「小河坊城知行若子村・岸河両所」とみえる。同九年に小川坊城家は中絶しているので、同族の甘露寺家が継いだものと考えられる。同一六年二月二四日には山田四郎衛門・小原修理の代りに代官を差下すに際して、両人の放状を求めている(天文日記)。同書同一五年八月二二日条によれば「岸川了願」が木越衆として、同一七年一二月一九日条によれば聖興寺代として上番していた。正保郷帳では高五五九石、田方三五町余・畑方二町二反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高五八二石、免六ツ一歩、小物成は山役三六九匁・蝋役三匁(三箇国高物成帳)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by