岸良村(読み)きしらむら

日本歴史地名大系 「岸良村」の解説

岸良村
きしらむら

[現在地名]内之浦町岸良

内之浦郷南方みなんかた村の南西にあり、東は海(太平洋)に面する。荒西あらにし山麓に源を発する久保田くぼた川、きた岳より南流して同川に合流する石踊いしおどり川・小森こもり川などの流域平地があるほかは、大部分山地が占める。村名は木志良とも記される。文永一一年(一二七四)六月一八日の阿仏譲状(旧記雑録)肝付きもつき郡内岸良村とみえ、同村の弁済使職・田畠山野狩倉等が阿仏(肝付兼員)から次男兼基に譲渡された。その四至は「限東内浦堺 限西禰寝堺 限北郡本堺 限南海」で、公事は佃用作三段・収納使用三段・新加用二段・年貢皮五枚・甘葛煎一合・在黄皮紫三斤など、臨時役は兼基ら兄弟三人で相談して勤めることとされた。兼基の系統はその後岸良氏を名乗るようになる。建治元年(一二七五)一〇月一八日、岸良村弁済職は兼基から子息得益へ譲られ(「伴兼基譲状」同書)、兼基死後の弘安二年(一二七九)四月、嫡子得房丸(得益と同一人物か不明)の相伝知行が認められている(「某下文写」岸良文書)

永仁三年(一二九五)二月二八日の大隅国守護代実光・篤秀連署打渡状(肝付文書)によれば、島津庄地頭代と肝付郡弁済使兼石の相論の際、弁済使当知行分を除く肝付郡九七町九反二杖と在家狩倉を兼石に打渡すとあり、このうちに岸良村も含まれていた。正安二年(一三〇〇)八月六日には肝付惣領兼石と当村弁済使とみられる金阿弥との間で和与が成立、岸良村の田三町のうち一町五反、屋敷一ヵ所・狩倉三ヵ所が金阿弥に渡され、小山田こやまだの狩倉などの四至が定められた(「伴兼石和与状」旧記雑録)。正和三年(一三一四)一二月二五日、金阿弥の後を継承したとみられる弟兼村は岸良村弁済使職安堵を得るために上洛する際、祖父阿仏譲状と領家下知の正文三通を持参するために四通の案文をつくって在所に留置き、万一正文を失うことがあれば子息彦犬丸が案文を用いて弁済使職の安堵を得るよう言置いた(「伴兼村証状」同書)。同四年二月二七日兼村は当村弁済使職を宛行われ(「尼真理宛行状」同書)、収納使職に補任されている(「尼真理宛行状写」岸良文書)。同日島津庄領家方の雑掌かと推定される尼真理は、岸良村の見参料一〇貫文と同年分年貢三貫文を受取っている(「尼真理見参料納状」「尼真理年貢納状」旧記雑録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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