デジタル大辞泉 「島原城」の意味・読み・例文・類語 しまばら‐じょう〔‐ジヤウ〕【島原城】 長崎県島原市にあった城。有馬氏のあとの領主松倉重政が元和4年(1618)から寛永2年(1625)にかけて築城。のち、島原天草一揆で、一揆いっき勢の攻撃を受けた。明治7年(1874)の廃城令を受けて土地建物が売却・破壊されるが、昭和35年(1960)天守閣を復興。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例 Sponserd by
精選版 日本国語大辞典 「島原城」の意味・読み・例文・類語 しまばら‐じょう‥ジャウ【島原城】 長崎県島原市にあった平城。元和四~寛永元年(一六一八‐二四)松倉重政が築構。寛文九年(一六六九)以降、松平氏七万石の居城。外郭(そとぐるわ)に平櫓四四、周囲約四キロメートルにおよび、築城費調達のための重税とキリシタン迫害の城として知られる。石塁・濠(ほり)が現存し、旧本丸跡に昭和三五年(一九六〇)三層櫓、同三九年に五層天守閣を復元した。高来城。森岳城。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
日本の城がわかる事典 「島原城」の解説 しまばらじょう【島原城】 長崎県島原市城内にあった江戸時代の城。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。有明海を臨む雲仙岳(うんぜんだけ)の麓(ふもと)に位置し、城郭の形式はほぼ長方形の連郭式平城(ひらじろ)。高く頑丈な石垣が特徴で、島原藩の政庁であり藩主の居所であった。本丸は周りを水堀で囲まれており、二の丸と廊下橋形式の木橋一本で繋がれている。天守は破風(はふ)をもたない独立式層塔型5重5階(初重の屋根を庇として4重5階とも)で、最上階の廻縁高欄(まわりえんこうらん)を戸板で囲ったため唐造りのようになっていた。松倉重政により1618年(元和4)から7年をかけて築かれたが、火山灰や溶岩流の地盤のため普請は困難をきわめ、携わった領民たちの怨みをかったと伝えられる。1637年(寛永14)に勃発した島原の乱で、島原城は一揆勢の攻撃を受けている。明治以降は廃城となり、建物などは撤去されたが、現在は本丸に天守・櫓(やぐら)・長塀が復元され、城跡公園となっている。島原鉄道島原駅から徒歩5分。◇森岳城、高来城ともいう。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報 Sponserd by
日本大百科全書(ニッポニカ) 「島原城」の意味・わかりやすい解説 島原城しまばらじょう 江戸期の城。長崎県島原市城内(じょうない)にある。別称森岳(もりたけ)城。キリシタン大名の有馬(ありま)氏にかわってこの地に入った松倉重政(しげまさ)によって、1618年(元和4)から25年(寛永2)にかけて築城された。37年に起こった島原の乱では一揆(いっき)勢の攻撃を受け大手門を一時破られたが、もちこたえた。乱後松倉氏は改易となり、松平、戸田、ふたたび松平と城主をかえて明治維新に至った。1960年(昭和35)天守閣が復原されたほか、西櫓(にしやぐら)、巽(たつみ)櫓が復原されている。[小和田哲男] 島原城 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例 Sponserd by
事典・日本の観光資源 「島原城」の解説 島原城 (長崎県島原市)「次代(あす)に残そう長崎百景」指定の観光名所。 島原城 (長崎県島原市)「長崎県新観光百選」指定の観光名所。 島原城 (長崎県島原市)「日本100名城」指定の観光名所。 出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報 Sponserd by