島原湊(読み)しまばらみなと

日本歴史地名大系 「島原湊」の解説

島原湊
しまばらみなと

江戸時代からみえる島原城下の湊津。その機能は中世にもうかがえるが(一五六三年「アルメイダ書簡」イエズス会士日本通信など)、実際の港湾施設が置かれた場所は、寛政四年(一七九二)の島原大変の前には大湊と称された船津ふなつ町の一帯とその北の内湊とよばれた水頭みずがしらであった。島原大変のまゆ山の崩壊により大湊を形成していた船津諸町が土砂で埋没したため、もとの松島まつしまの南西部、つまりのちの湊町みなとまち地区がこれに代わり港湾として整備されていったと考えられる。正保二年(一六四五)の高来郡内高力氏領分図に「島原湊」とみえるほか、「入江潮時船入」とあり、口之津くちのつ(現口之津町)まで八里、肥後河尻かわしり(現熊本市)まで八里、同高橋たかはし(現同上)まで九里、筑後柳川やながわ(現福岡県柳川市)まで一八里と記される。慶安二年(一六四九)の肥前国道法帳に船路として島原がみえ、口之津湊方面などと結ばれ、湊の広さは一町、長さ九町、深さ七、八尺とする。宝永四年(一七〇七)と記す島原領内村明細帳では「湊」とあり、有馬氏の家来が居城した古城跡は漁師町になったという。また領内諸村は「島原城下湊」を年貢米の津出し先としている。近国・遠国の廻船を係留する湊で、長さ一二〇間、横は平均一一〇間、深さ三尋で、約五〇〇艘の船をつなぐことができる。廻船五〇(一一端帆から二枚帆まで)・漁船一一一・藻取通船六、海漁では鯛・鯔・鱸・あかはな・鮃などがある。湊では大市場・月次市が開かれていた。入江は長さ五〇〇間・横二〇〇間ほどの規模の船屋前、長さ一四〇間・横一〇五間ほどの水頭築切の二ヵ所がある。船倉会所一ヵ所、船屋一〇軒があり、船番所は浜番所・中ノ番所・築出番所の三軒で、追手勢屯築出蔵六軒のうち二軒とともに船方支配であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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