日本歴史地名大系 「川床村」の解説 川床村かわとこむら 鹿児島県:出水郡東町川床村[現在地名]東町川床鷹巣(たかのす)村の南に位置し、南は山門野(やまどの)村。東は海(八代海)に面し、半島をなす市来(いちご)崎が突き出ている。地内を汐見(しおみ)川が南流し、流域に盆地状の沖積低地が発達。「鹿児島県地誌」は字地として塩追(しおい)・脇崎(わきざき)・赤崎(あかさき)・川床をあげる。塩追は九州本土米(こめ)ノ津(つ)湊(現出水市)への渡船場で、市来崎の付根の湾内に位置する。文化七年(一八一〇)伊能忠敬の測量隊が長島を訪れた際も、一行は米ノ津湊を立って塩追に着船している(「伊能忠敬測量日記」など)。また同湾内には小(こ)島・七重(ななえ)島などの小島が浮ぶ。元徳元年(一三二九)一一月二九日の鎮西下知状(島津他家文書)に「河床」とみえ、当地などの領有をめぐって妙阿代種秀と蓮胤(種親)代種武(蓮種)が争っている。 川床村かわとこむら 大分県:大分市旧大南町地区川床村[現在地名]大分市中戸次(なかへつぎ) 川床大野川の中洲であった場所に成立した村で、北は備後(びご)村。同川左岸の成松(なりまつ)村から渡河した日向道が通る。江戸時代を通じて臼杵藩領で、慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に村名がみえ高三六九石余、楠木生村組。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高三六九石余・出来高一六九石余、すべて畑方で水損所。正保郷帳では戸次庄に所属。 川床村かわとこむら 大分県:竹田市川床村[現在地名]竹田市川床玉来(たまらい)川中流南岸にあり、東は紙漉(かみすき)村、北は志土知(しとち)村。正保郷帳では家中(かちゆう)郷に属し、田方八三石余・畑方五二石余で、柴山有と注記される。弘化物成帳では中角組のうち、村位は中、免七ツ六分、田一一七石余(一一町七反余)・畑六〇石余(一〇町六反余)・屋敷五石余(五反余)で、開田二斗余(一反余)・開畑三石余(五町三反余)がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by