宗義智(読み)そうよしとし

精選版 日本国語大辞典 「宗義智」の意味・読み・例文・類語

そう‐よしとし【宗義智】

  1. 安土桃山・江戸初期の武将対馬藩藩祖。府中城主。初名は昭景。豊臣秀吉徳川家康の下で、命ぜられて朝鮮との交渉にあたり、文祿・慶長の役で功を立てる。関ケ原の戦いでは西軍に属し、のち日朝国交回復奔走。永祿一一~元和元年(一五六八‐一六一五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宗義智」の意味・わかりやすい解説

宗義智
そうよしとし
(1568―1615)

安土(あづち)桃山時代~江戸初期の武将。対馬(つしま)藩祖。14代将盛(まさもり)五男。永禄(えいろく)11年対馬に生まれる。初め足利義昭(あしかがよしあき)の1字を受け昭景(あきかげ)、のち義智に改称。1579年(天正7)12歳で家督を継いだが(19代)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州征伐に際して、隠居後も引き続き家政を補佐していた16代義調(よししげ)がふたたび当主となり、義智を嗣子(しし)とした。秀吉に服属した直後に義調は没し、改めて義智が当主となった。その後は秀吉の命により朝鮮外交に奔走し、91年には通信使来日を実現し、従四位下侍従(じゅしいげじじゅう)、対馬守(かみ)に補任(ぶにん)。その後も戦争回避に努力したが、成功しなかった。文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役では小西行長(こにしゆきなが)とともに各地に転戦、また早期講和に努めた。戦後は重臣柳川調信(やながわしげのぶ)・以酊庵(いていあん)住持景轍玄蘇(けいてつげんそ)とともに国交回復に尽力し、1605年(慶長10)講和成立、以後朝鮮関係の独占を許された。09年己酉約条(きゅうやくじょう)で朝鮮通交を再開。室は小西行長娘。その縁で関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、調信の弁明で改易を免れたという。翌年行長娘を離縁。慶長20年正月3日没、自殺との説もあるが真偽は不明。年48。墓所は長崎県対馬市厳原町(いづはらまち)の万松院(ばんしょういん)。

[荒野泰典]

『田中健夫著『宗義智』(『大名列伝2』所収・1967・人物往来社)』

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朝日日本歴史人物事典 「宗義智」の解説

宗義智

没年:元和1.1.3(1615.1.31)
生年:永禄11(1568)
安土桃山から江戸時代前期にかけての対馬島主。将盛の子。幼名は彦三,彦七。室町幕府将軍足利義昭より諱の1字を与えられ昭景と称し,のち義智に改める。12歳で兄義純の跡を継いで対馬守護となるが,幼少のため実質的島政は,後見役で先の島主,義調に委ねられる。天正15(1587)年,豊臣秀吉の九州侵攻に際し義調と共に筑前箱崎の陣営出頭,大陸出兵のための朝鮮との折衝役を仰せ付けられた。翌年義調が死去し,役目を引き継ぐ。朝鮮交易を生命線とする対馬にあって,可能な限り戦争回避の方針をとり,外交僧景轍玄蘇,家老柳川調信,博多商人嶋井宗室,秀吉の家臣小西行長らと策を練る。この間の同18年,朝鮮通信使の来日を約100年ぶりに実現。また行長の娘マリアを正妻とし,その影響でのちにダリオの洗礼名を受けてキリシタン大名になった。 文禄1(1592)年,文禄の役に突入すると行長の第1軍に配属され,共に講和を求めて奔走する。勇将として知られる半面,戦場で対面したイエズス会宣教師から「妻から贈られたロザリオをかけた慎み深い,学識のある若者」と評される。戦役は慶長3(1598)年,秀吉の死とともに終わり,一転して朝鮮との修好回復を開始するが,同5年の関ケ原の戦では,行長との関係から石田三成方西軍に属して窮地に立つ。柳川氏の働きもあって取り潰しを免れ,妻を離別して徳川政権のもとで朝鮮外交に専念。しかし講和交渉は困難を極め,徳川氏の面目を損なわずに朝鮮側の怒りを和らげるという難題にあって,国書偽造の手段を余儀なくされる。交渉開始から9年目の同12年通信使が来日,その2年後に己酉約条が締結されて漸く貿易再開の運びとなった。激動の時代,近世日朝交流の基礎を造り上げた功績は朝鮮側からも高く評価され,死後,法名で宗家の菩提寺とされた万松院に図書(銅印)が贈られ,使船派遣が許された。<参考文献>陶山存編『宗氏家譜略』,田代和生「近世における対馬と朝鮮」(『玄界灘の島々』)

(田代和生)

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改訂新版 世界大百科事典 「宗義智」の意味・わかりやすい解説

宗義智 (そうよしとし)
生没年:1568-1615(永禄11-元和1)

対馬藩藩祖。初め昭景,対馬守,侍従従四位下。豊臣秀吉の命により朝鮮外交に奔走,1591年(天正19)通信使来日を実現するなど戦争回避に努力。文禄・慶長の役に小西行長とともに活躍,肥前に領知1万石を与えられた。戦後も重臣柳川調信(しげのぶ)らと国交回復に尽力した。1605年(慶長10)講和が成立,以後朝鮮関係の独占を許された。室は小西行長女,のち離婚。
執筆者:

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「宗義智」の解説

宗義智
そうよしとし

1568~1615.1.3

織豊期~江戸初期の武将。対馬島主のち対馬国府中藩主。将盛(まさもり)の子。初名昭景,一時吉智とも。従四位下,侍従,対馬守。法号万松院(ばんしょういん)。1579年(天正7)島主となる。87年豊臣秀吉の九州攻めの際,前島主義調(よししげ)が復帰したが,翌年再び義智が島主。秀吉の朝鮮出兵を前に,三たび朝鮮に渡り交渉にあたった。文禄の役には兵3000を率いて参戦,小西行長と行動をともにし,慶長の役では熊川・南海などで戦った。戦後は朝鮮との復交交渉に尽力し,1607年(慶長12)国王使の来日,09年己酉(きゆう)約条締結を実現。15年(元和元)対馬で没した。22年朝鮮政府は嫡男義成に図書(としょ)(銅印)を与え,万松院送使の派遣を認めた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宗義智」の解説

宗義智 そう-よしとし

1568-1615 織豊-江戸時代前期の大名。
永禄(えいろく)11年生まれ。宗将盛(まさもり)の5男。天正(てんしょう)7年12歳で兄宗義純(よしずみ)の跡をつぎ対馬(つしま)(長崎県)の守護となる。宗義調(よししげ)が後見。16年守護に復帰していた義調の死により再任。豊臣秀吉の朝鮮出兵には小西行長軍の先陣をつとめた。戦後は,徳川家康の命により朝鮮との国交修復につとめ,慶長10年講和を成立させた。対馬府中藩主宗家初代。慶長20年1月3日死去。48歳。初名は昭景。通称は彦三。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宗義智」の意味・わかりやすい解説

宗義智
そうよしとし

[生]永禄11(1568).対馬,豊
[没]慶長20(1615).1.3. 対馬,府中
戦国時代の武将,対馬島主。将盛の子,母は武末氏。「よしとも」ともいう。初名は昭景,幼名は彦七。法名は万松院殿石翁宗虎。刑部少輔。義調 (よししげ) の嗣子となり,天正7 (1579) 年封を継いだ。文禄・慶長の役には小西行長に従って功を立て,講和の議に尽力した。治世 37年に及び,宗氏中興の祖といわれる。

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世界大百科事典(旧版)内の宗義智の言及

【己酉約条】より

…1609年(慶長14)朝鮮が対馬の大名宗義智に与えた通交貿易上の諸規定。同年が己酉の年に当たるのでこの名があり,己酉条約,慶長条約ともいう。…

【宗氏】より

…鎌倉時代から明治維新まで対馬などを支配した北九州の豪族,大名。出自については平知盛後胤説,対馬との関係では1245年(寛元3)宗重尚の阿比留(あびる)氏討伐説が流布していたが,現在は両説とも後世の捏造(ねつぞう)で,出自は大宰府府官惟宗(これむね)氏の武士化したものとされる。対馬との関係で確実・最古の人物は,1274年(文永11)のモンゴル襲来時に対馬で戦死した対馬国地頭代の宗資国である。鎌倉時代は大宰少弐氏が対馬国守護・地頭を兼ね,宗氏は地頭代として支配に関係し,南北朝期に実質的な支配者となり,同末期に守護に昇格した。…

【対馬島】より

…しかし28年(享禄1)には宗盛治の乱が起こるなど宗氏の権力は必ずしも安定せず,ついで壱岐に進出した松浦氏との対立が始まり,86年(天正14)豊臣秀吉の九州出兵の報に接するまで続いた。
【近世】
 1587年秀吉に服属した後,宗義智(よしとし)は朝鮮外交に奔走した。文禄・慶長の役には全島を挙げて動員されたほか,朝鮮貿易を断たれ,対馬は疲弊した。…

※「宗義智」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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