川部村(読み)かわべむら

日本歴史地名大系 「川部村」の解説

川部村
かわべむら

[現在地名]宇佐市川部

北流する駅館(やつかん)川の下流両岸に展開する。西岸は同川の氾濫によって形成された沖積低地で、北は江島(えしま)村、西は畑田(はたけだ)村。東岸部は標高三〇メートルほどの宇佐台地上を占め、東は高森(たかもり)村、南は上田(うえだ)村。当地一帯の宇佐台地には川部原(かわべはる)の通称があり、川部原から高森にかけての宇佐台地上には宇佐国造一族のものと考えられる川部高森古墳群が展開し、うち地内には鶴見(つるみ)・免(めん)ヶ平(ひら)・福勝寺(ふくしようじ)・車坂(くるまざか)・地蔵堂(じぞうどう)などの古墳が現存する。西岸部の水田は辛島(からしま)井手の外三方(そとさんぽう)による水掛りで、自然流下に近い。


川部村
かわなべむら

[現在地名]高松市川部町

岡本(おかもと)村の東、香東(こうとう)川左岸に位置し、南方池内(いけのうち)村(現香川郡香南町)との境に小田(おだ)池がある。円座(えんざ)村から由佐(ゆさ)村(現同上)に向かう道が通る。河部・河辺・川辺とも書き、古代の香川郡川辺郷(和名抄)の遺称地。「全讃史」に川辺城に小田景光が拠ったとある。寛永国絵図には河辺郷とみえ、高一千一六〇石余。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳には川辺村とあり、高一千一八一石余。同一九年の小物成は綿五匁(高松領小物成帳)。灌漑用水は小田池(当村水掛高一千三四三石余)のほか柳(やな)井(同高五七〇石)によった(池泉合符録)。


川部村
かわべむら

[現在地名]旭志村川辺(かわべ)

尾足(おたる)村の西、峠(とうげ)川(水無川)と矢護(やご)川が合流する付近にある。大津(おおづ)町(現大津町)と隈府(わいふ)町(現菊池市)を結ぶ江戸期の巡見往還隈府街道が通る。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳に「川辺村」とあり、名請人四八人(うち屋敷持一二)、田四町二反余・畠八三町一反余、分米四〇六石三斗余。寛永一〇年(一六三三)の人畜改帳では住吉村組に属し、「川辺村」と「川辺出分」がある。


川部村
かわべむら

[現在地名]岐阜市川部

下尻毛(しもしつけ)村の西に位置し、南は曾我屋(そがや)村、西は又丸(またまる)村。根尾(ねお)川が村中央を南流し、今も細流となって集落の東にある。川辺とも記された。慶長郷帳および元和二年(一六一六)の村高領知改帳に「川辺村」とみえ、高二八七石余。正保郷帳では田一八四石余・畑一〇三石余。初め加藤貞泰(黒野藩)領であったが、慶長一五年(一六一〇)加納藩領となり、家臣一二名の給地(「家中知行渡方帳」森文書)。宝暦五年(一七五五)幕府領で大垣藩預所、享和三年(一八〇三)陸奥平藩領となり(岐阜県史)、幕末に至る。明和八年(一七七一)の村明細帳によれば、貞享元年(一六八四)に内検が行われ、田二五二石余・二二町余、畑九二石余・一〇町余、新開分として田一石余・一反、畑五石余・九反余。


川部村
かわべむら

[現在地名]鹿角市八幡平(はちまんたい) 川部

米代川と熊沢(くまさわ)川が交わる所に位置し、南は長嶺(ながみね)村。

寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出、村高一〇九石四斗余で二七石一斗余が蔵分、民戸一九軒でうち和田(わだ)・川原向(かわらむかい)・深川(ふかがわ)に各一軒。近世後期の花輪御官所村々郡分高書上帳では高一〇九石四斗余でうち蔵分五四石九斗余、給人は五人で、小豆沢大日(あずきざわだいにち)堂別当の三七石余が最高である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報