河辺郷
かわなべごう
古代の安倍郡川辺郷を継承した中世の郷名。江戸期の川辺村一帯に比定される。大永四年(一五二四)九月二〇日の今川氏親朱印状写(「諸家文書纂」所収興津文書)によると、興津久信の所領であった「安部郡之内河辺郷地頭方」などがその子正信に安堵された。今川氏輝も、天文三年(一五三四)七月一三日に「一、河辺地頭方并入江庄内法性寺米、一、河辺枝郷小黒之内五町此内きつねかさきに壱丁ふす」を安堵している(「今川氏輝判物写」同文書)。
河辺郷
かわなべごう
「和名抄」諸本に訓はない。吉井川と加茂川との合流点東の河岸段丘面を中心とする現津山市河辺・国分寺・日上付近が郷域と考えられる。推定郷域内の代表的遺跡に天神原遺跡(津山市河辺)がある。弥生時代後期の集落跡と六世紀頃の古墳群を主体とするが、旧石器時代のナイフ形石器一点と弥生時代前期の土器若干も出土している。また、帆立貝式の井口車塚古墳(全長三六メートル)、円墳の飯塚古墳(径三五メートル)、前方後円墳の日上天王山古墳(全長五五メートル)などの首長墓をはじめ、日上畝山古墳群(六一基)、まいまい塚古墳群、天神原古墳群(以上津山市)などの群集墳が造られており、古墳時代を通じて有力首長勢力の基盤とした地域である。
河辺郷
かわべごう
「和名抄」東急本に「加波乃倍」の訓がある。郷域については、現吉備郡真備町川辺を中心とし同町岡田の南部をも含むと推定されている。「岡山県通史」は天平一一年(七三九)備中国大税負死亡人帳(正倉院文書)にみえる窪屋郡白髪部郷の川辺里が発達して下道郡の河辺郷になったとする。近年の説にいわれるように、この説が成立するためには高梁川の河道の変化による所属郡の変更を考慮しなければならない。だが必ずしもそのように考える必要はない。郷里制下の里は霊亀元年(七一五)から天平一二年の二五年間のみ行われたもので、下道郡に初めから河辺郷があり、その対岸の白髪部郷に川辺里があったとしても問題はない。
河辺郷
かわべごう
「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。「大日本地名辞書」に「今錦村・川部村等にあたり、酒井郷の北に隣る、即鮫川の南辺とす、名義に由るも、大略其地を指点すべし」とある。「日本地理志料」は小川・沼辺(沼部)・富津・江栗・三沢・長子・大倉(現いわき市)の地をあげる。
河辺郷
かわべごう
「和名抄」諸本にみえる郷名。高山寺本に「加波へ」、東急本に「加波乃倍」の訓がある。比定地については定説がなく、「遠江国風土記伝」は豊田郡野部(現豊岡村上野部・下野部付近)とし、「大日本地名辞書」は不詳としつつも古麁玉河(天竜川の旧流路)の東岸に位置するとして万斛村(現浜松市西ヶ崎町・大瀬町・大島町・中郡町・積志町など)を候補地とする。
河辺郷
かわのべごう
「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、他国では備中国下道郡・讃岐国香河郡の同名郷などで「加波乃倍」(いずれも東急本)の訓がある。郷域は未詳であるが、河辺の字義は河に接している地域の意ととられる。
河辺郷
かわなべごう
「和名抄」東急本には「加波乃倍」と訓を付す。香東川左岸、現高松市北西部の川部町を遺称地とし、北の円座町を含む一帯に比定される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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