日本歴史地名大系 「市原庄」の解説 市原庄いちはらのしよう 滋賀県:神崎郡永源寺町市原庄愛知(えち)川南岸、布引(ぬのびき)山丘陵北麓一帯にあったとみられる。庄域は不詳だが、近世には池脇(いけのわき)・二俣(ふたまた)・高木(たかぎ)・市原野(いちはらの)・新出(しんで)・一式(いつしき)・石谷(いしだに)および土器(どき)・瓜生津(うりゆうづ)(現八日市市)の蛇砂(へびすな)川流域の村々が市原郷と称されている。立庄の時期・経緯等は不明。永和四年(一三七八)二月二九日には市原庄内字大深の地一段半(得分七斗)が永源寺へ寄進されている。同所は市原中村左衛門次郎の売地であった(「禅英寄進状」永源寺文書)。応仁―文明(一四六七―八七)頃の領主は臨川(りんせん)寺三会(さんえ)院(現京都市右京区)末寺の近江国金剛(こんごう)寺(現近江八幡市)(「蔭涼軒日録」文明一六年一二月一二日条)。南北朝・室町期には北隣の柿(かき)御園と山上(やまかみ)郷用水の帰属をめぐって争っている。 市原庄いちはらのしよう 千葉県:市原市市原庄上総国にあった庄園。飯香岡(いいがおか)八幡宮を中心とする一帯に比定される。保元三年(一一五八)一二月三日の官宣旨(石清水文書)に上総国イチハラベツク市原別宮とみえ、市原八幡宮(現飯香岡八幡宮)が山城石清水(いわしみず)八幡宮の別宮で、のち市原庄八幡宮と称されたことから、平安末期の当庄は石清水八幡宮領であったと推定される。一三世紀前半の一月三〇日の関東御教書写(榊葉集)によれば、市原別宮預所に安居頭役が賦課されたが、預所の掃部入道は先例がないと拒絶、幕府は勤仕を命じた。庄名は鎌倉末期と推定される一二月一三日の長崎高資書状(尊経閣文庫)に上総国市原庄八幡宮とあるのが早く、長崎高資は同別当職が鎌倉鶴岡八幡宮の大輔律師俊珎に譲与され、安堵されたことを一門の長崎弥次郎に伝えている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by