常田庄(読み)ときだのしよう

日本歴史地名大系 「常田庄」の解説

常田庄
ときだのしよう

安元二年(一一七六)二月八条院領目録(山科家古文書)に「信濃国常田」とみえるのが初見。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月の条に「八条院御領常田庄」と記され、徳治元年(一三〇六)後宇多上皇院宣案(竹内文平氏蔵)昭慶門院の御領目録には、「八条院庁分」として「信濃国常田」とみえ、平安時代末より八条院領として伝領されている。

長享二年(一四八八)諏訪社下社の春秋之宮造宮之次第には「四本御柱之内、壱、常田庄房山・矢手・中村・踏入古今竹居祝」と記され、永正三年(一五〇六)四月の同社下諏方春宮一御柱造宮之次第には「常田庄房山之内上西脇分合籾廿七俵三升」のほか、同庄として「房山之内下西脇・房山之内中村・房山之内矢手・房山之内踏入・上常田・中常田・落合」などが記され、これによって荘園の範囲は、科野大宮しなのおおみや社付近一帯の常田から、太郎たろう山麓房山ぼうやま(下西脇・中村・矢手・踏入を含む)から、矢出沢やでさわ川が千曲川に合流する辺りの落合おちあい(いま小字落合がある)までの間、すなわち東は神科かみしな台地の下から、南北は千曲川と太郎山麓に挟まれた間の大字常入ときいり、大字上田うえだの地域で、西は大字常磐城ときわぎを含む一帯の地域であろうと推定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報