日本歴史地名大系 「幡羅郡」の解説 幡羅郡はらぐん 埼玉県:武蔵国幡羅郡「和名抄」にみえ、訓は東急本に「原」、名博本に「ハラ」とある。古代・中世には播羅・波羅・原と書かれることもあり(「続日本後紀」嘉祥二年一一月二日条、寿永二年二月二七日「源頼朝寄進状」鶴岡八幡宮文書など)、近世から近代にかけては旛羅と記されることが多かったが、幕府作成の郷帳には幡羅とある。また近世後期以降ハタラともよばれていたようであるが、近代の公的なよび方は「ハラ」(内務省地理局編纂「地名索引」)。江戸時代の郡境は、北は利根川を挟んで上野国、東は埼玉郡、西は榛沢(はんざわ)郡、南は大里郡に接し、現在の大里郡妻沼(めぬま)町と深谷市・熊谷市の一部にあたる。〔古代〕「和名抄」高山寺本は上秦(かみつはた)・下秦(しもつはた)・広沢(ひろさわ)・荏原(えはら)・幡羅・那珂(なか)・霜見(しもみ)の七郷を記し、東急本では余戸(あまるべ)郷が加わる。令の規定では八郷(里)は中郡であり、武蔵国のうち埼玉県側では入間(いるま)郡・男衾(おぶすま)郡とならび最大規模の人口密集地である。上秦・下秦は渡来人の秦氏にちなむ郷名であろう。「延喜式」神名帳には「白髪(シラカミノ)神社」「田中(タナカノ)神社」「楡(ニレ)山神社」「奈良(ナラノ)神社」の四社が載る。熊谷市の中奈良(なかなら)にある同名社に比定される奈良神社は、嘉祥二年(八四九)一一月二日官社に列せられているが(続日本後紀)、それは数々の霊験があるという武蔵国の奏言によってであった(「文徳実録」同三年五月一九日条)。多賀(たが)城跡(現宮城県多賀城市)から出土した大同四年(八〇九)の紀年をもつ木簡に「武蔵国幡羅郡米五斗 部領使□□刑部古□□(乙正)」と書かれたものがあり、幡羅郡から多賀城へ米が運ばれていたことが知られる。「刑部古□□」なる人物が部領使とあるので、彼を責任者として幡羅郡から徴発された人々が米を運んだと思われ、この木簡はその荷札としてつけられたものである。刑部の一族は武蔵国内では豊島(としま)郡や多摩郡に分布しているが、当郡にもかかわりがあったらしい。延暦八年(七八九)紀朝臣古佐美を征東大将軍、入間宿禰広成を副将軍とする征東軍は阿弖流為の率いる「胆沢之賊」に大敗を喫した。その原因の一つに兵粮の欠乏があったため、中央政府は東国諸国に命じて多くの兵粮や人夫を東北地方へ送り込んだ(「続日本紀」同年六月三日・八日条など)。こうした兵站の整備とともに、延暦二〇年坂上田村麻呂が征東大将軍となって東北地方はひとまず鎮圧された。翌年田村麻呂は胆沢(いさわ)城(現岩手県水沢市)をつくり、武蔵国をはじめ東国一〇ヵ国から四千人が送り込まれた(「日本紀略」延暦二〇年九月二八日条・一一月七日条、同二一年正月九日条・一一日条)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by