平久保村
ぺーぶぐむら
伊原間村の北に接する石垣島最北端の村。方音ペーブグはペークブの転じたもの。平窪とも書いた(両島絵図帳)。平久保半島の北半を占め、東・北・西三方を海に囲まれる。中央部に北から山当山(二四六・九メートル)・安良岳(三六六メートル)・久宇良岳(二五四・八メートル)の山地が連なり、安良岳東麓に小村の安良村がある。
オヤケアカハチ事件があった弘治一三年(一五〇〇)頃、平久保に加那按司(かなあじ)という豪族がおり、稲・粟を四、五百石ほど蓄え、牛馬は三、四百頭も飼い、百姓らを酷使して暴虐極まる威勢を張っていたが、西表島(現竹富町)の慶来慶田城用緒に誅殺されたという(慶来慶田城由来記)。平久保半島北端は湾入はないが古くから船の係留所に指定され、両島絵図帳に「ひらくふ船掛所」がみえる。正保国絵図には「ひらくほ 船かゝり不成」とあるが、「ひらくほ崎」から川平津までの五里半の航路と、宮古の多良間島(現多良間村)までの一八里の航路が描かれており、船掛所の近くに「きやか村」と記載されている。両島絵図帳にも川平間切に「きやか村」がみえ、高一一石余。きやか村はその後平久保村と改称したらしい。崇禎元年(一六二八)の三間切制移行時の書上に平久保村がみえ、大浜間切に属した(八重山島年来記)。順治八年(一六五一)の人口は桴海村・仲筋村と合せて七三人。当時は半島基部の船越付近まで村域に含んだとみられる。集落は喜屋名(「きやか」か)にあったが、康熙二三年(一六八四)に来島した久米村(現那覇市)の風水師外間親雲上の検分に従い、同四一年に五家族が半島西岸の堀川野へ移ったという(同書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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