平北郡・北郡(読み)へいきたぐん・きたぐん

日本歴史地名大系 「平北郡・北郡」の解説

平北郡・北郡
へいきたぐん・きたぐん

和名抄」に記す平群へぐり郡が再編されて成立した郡で、北郡は近世初頭まで用いられる。のちのへい郡にあたる。平北は「ヘイホク」と読んだか。郡の北部をさす郡名とみられ、平群郡の南西部は多々良たたら(現富浦町)、南部は群房ぐんぼう(現館山市・三芳村か)であったと考えられる。

〔中世〕

治承四年(一一八〇)八月二九日、石橋山の合戦に敗れた源頼朝が海路逃れた先が平北郡りよう(現鋸南町竜島)であった(吾妻鏡)翌月には平北郡を立って上総介広常の居所に赴いている。宝治元年(一二四七)六月二三日の将軍藤原頼嗣袖判下文案(二階堂文書)には北郡大河大隅前司跡とみえる。平群郡の北部の郡を平北郡と称し、またときに北郡と称したと考えられる。これ以前当郡は多々良庄などと同じく所領単位になっており、大河戸重澄(三浦義村の弟)が当郡地頭職を有していた。長寛元年(一一六三)三浦義明の嫡男杉本義宗が東に接する長狭ながさ郡の長狭氏と戦い、討死したとされるので(延慶本「平家物語」)、当時より三浦氏一族の勢力が当郡に及んでいた可能性がある。少なくとも相模安房を結ぶ海上交通路(たとえば猟島)を確保していたのかもしれない。

宝治合戦後、大河戸氏は当郡地頭職を没収され、二階堂行氏が勲功の賞として補任されているが、その所領は北郡内の下尺万しもさくま郷・元名もとな村・吉浜よしはま(現鋸南町)であった(「二階堂氏知行注文」二階堂文書)。文永八年(一二七一)には北郡内不入計いりやまず(現富山町)の地頭職が子の行景に譲渡されている(同九年五月二六日「将軍源惟康家政所下文案」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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