日本歴史地名大系 「平塚新田」の解説 平塚新田ひらつかしんでん 埼玉県:所沢市平塚新田[現在地名]所沢市神米金(かめがね)神谷(かみや)新田の南東にあり、南は所沢新田。享保期(一七一六―三六)に開発された武蔵野新田の一で、入間(いるま)郡山口(やまぐち)領久米(くめ)村の持添新田。村名は同村の平塚氏が開墾したことにちなむと伝え、久米新田ともよばれた。幕府領。享保二〇年に嘉平次が出百姓として住み始め、以後七年間は同人の家一軒のみで検地のあった宝暦八年(一七五八)には八軒となっていた。同年の検地帳(平塚家文書)では高六二石余・反別二四町七反余、名請人一四人。この検地に際し嘉平次は儀右衛門・甚左衛門とともに案内役を務めたが、この年不調法があったとして他の七軒から付合いを外された。 平塚新田ひらつかしんでん 埼玉県:熊谷市平塚新田[現在地名]熊谷市平塚新田大里郡上吉見(かみよしみ)領に所属(風土記稿)。荒川の沖積扇状地の南東端に位置し、一部は洪積扇状地の江南(こうなん)台地にまたがる。村内を吉野(よしの)川が南東流し、同川と交差して熊谷川越道が通る。北は村岡(むらおか)村。中世には春原(しゆんのはら)庄に含まれていたと考えられる。万吉(まげち)村から分村したとみられ、初め平塚新田村と称し無高であったが、享保一八年(一七三三)の検地によって平塚新田と改称、幕府領となったが、寛保二年(一七四二)旗本田付領となり幕末に至る(「風土記稿」・改革組合取調書など)。 平塚新田ひらつかしんでん 埼玉県:川越市平塚新田[現在地名]川越市平塚新田平塚村の北東、入間(いるま)川・小畔(こあぜ)川と旧小畔川の合流点付近の低地に立地。高麗(こま)郡に属した。平塚村新田とも記す。入間郡網代(あじろ)村の百姓又左衛門が開発したと伝える(風土記稿)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳に村名がみえ、高七五石余、反別田三町六反余・畑一二町二反余、幕末まで川越藩領。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by