幾地村(読み)いくじむら

日本歴史地名大系 「幾地村」の解説

幾地村
いくじむら

[現在地名]関川村幾地

鍬江沢くわえざわ川の支流幾地川が北流し、北は山本やまもと村、西は尾根を越えて大長谷おおながたに(現北蒲原郡黒川村)へ続く山間の村。正応五年(一二九二)頃の荒河保・奥山庄堺相論和与絵図(反町氏蔵)に「生地沢」とみえ、奥山おくやま桑柄くわえ(現黒川村鍬江)と道を隔てた東方に集落が描かれている。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「黒川分ゐくぢ村」とみえ、本納一〇石二斗五升・縄高三九石八斗二升、家二軒とある。近世は初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領正保国絵図では二四石余。万治二年(一六五九)の検地時には高五三石二斗余、田三町九反二畝余・畑八反四畝余。


幾地村
いくじむら

[現在地名]野田川町字幾地

三河内みごち村の北に位置し、加悦かや街道および出石いずし街道沿いに集落が形成された。

慶長検地郷村帳に高一〇三八・二九石「幾地村」とあるが、延宝九年(一六八一)の延高で一千三〇七石余となった(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領。享和三年(一八〇三)の御領分縮緬屋御鑑札御改帳(「丹後加悦町誌」所引)によれば、村には「十七機、外新機五機、同紬一機」があったことがわかる。

幾地城跡は小字城山しろやまにある。標高一六〇メートルの山頂に幾つかの郭が延長一三〇メートルほどにわたって連なる。「丹哥府志」は「石河左衛門城墟」と伝え、「丹後旧事記」に「伊久地砦、赤井五郎、同平治、同村別城 石川左衛門尉」と記し、「一色軍記」に「伊久地山、赤井五郎、同砦 同平治、同村別城 石川左衛門尉秀門」と記している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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