府中城(読み)ふちゅうじょう

日本の城がわかる事典 「府中城」の解説

ふちゅうじょう【府中城〈茨城県〉】

茨城県石岡市にあった城。鎌倉時代から安土桃山時代にかけての城郭で、江戸時代には水戸藩支藩(常陸府中藩)の陣屋が置かれた。往時の府中城は、丘陵の上に築かれ、本丸、二の丸、三の丸や3つの出丸を配置し、幾重にも濠をめぐらした堅固な城郭だった。鎌倉時代初期の1214年(建保2)に、大掾(馬場)資朝がかつて常陸国の国衙が置かれていた場所に別館を築いたのがその始まりとされる。南北朝時代の1346年(貞和2/正平1)に、馬場城(水戸城の前身、同県水戸市)を本城とする馬場詮国がこの館を城郭として改修した。1426年(応永33)、馬場城が江戸通房により攻略されたことから、馬場氏は府中城を本城としたが、馬場浄幹の代の1590年(天正18)に佐竹義宣によって攻略され、馬場氏は滅亡。府中城は佐竹氏の城となり佐竹義尚が入城した。しかし、関ヶ原の戦いで佐竹氏は西軍に与したことから、1602年(慶長7)に秋田に国替えとなり、府中城には六郷氏が、次いで皆川氏が入封した。その後、1700年(元禄13)、水戸藩主徳川頼房の五男の松平頼隆が2万石で府中に入封し、以後頼隆の家系が10代続いて、水戸藩の4支藩(讃岐高松・陸奥守山・常陸府中・常陸宍戸)の一つとして明治を迎えた。文政年間(1818~29年)には府中城跡に陣屋が建てられ藩庁となった。現在、石岡小学校の敷地内に土塁の一部と、文政年間に建設された陣屋の表門が現存している。また、小学校内には国衙(常陸国府)があったことを示す記念碑とともに、府中城の縄張り図を描いた案内板が建っている。JR常磐本線石岡駅から徒歩約15分。◇各地に府中城があるため、常陸府中城と呼んで区別することがある。

ふちゅうじょう【府中城〈静岡県〉】

駿府城(すんぷじょう)

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「府中城」の意味・わかりやすい解説

府中城
ふちゅうじょう

駿府城」のページをご覧ください。

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