府中城跡(読み)ふちゆうじようあと

日本歴史地名大系 「府中城跡」の解説

府中城跡
ふちゆうじようあと

[現在地名]武生市府中一丁目

府中の北東部、日野川西岸の現在の市役所一帯の地。中世の越前守護所跡、朝倉氏時代の府中奉行所跡といわれるが、本格的な築城は天正三年(一五七五)前田利家の在城以後と考えられ、利家の府中城拡張工事によって、その地にあった惣社そうじや(現総社大神宮)を現地きよう町に移したという(総社大神宮縁起)。慶長六年(一六〇一)越前国主結城秀康の家臣本多富正が府中城主となると、前田氏の居城をさらに修築してこれを居館とした。


府中城跡
ふちゆうじようあと

[現在地名]石岡市総社二丁目

現石岡市街地の西端にあり、築城にあたっては常陸国衙の置かれた地を利用したといわれる。城域は東西約六〇〇メートル・南北約七〇〇メートル、本丸・二の丸・三の丸のほか、箱の内はこのうち出丸・磯部いそべ出丸などを備え、堀を幾重にもめぐらした平城で、城の西南断崖をなしている。正平年間(一三四六―七〇)に大掾詮国によって築城とされ(新編常陸国誌)、大掾氏は以後八代浄幹の代まで居城としたが、天正一八年(一五九〇)佐竹義宣との戦いで落城し、佐竹氏が城主となった。慶長七年(一六〇二)佐竹氏秋田移封後は六郷政乗・皆川広照らを経て、元禄一三年(一七〇〇)松平頼隆領主となり、府中城三の丸の地域を府中藩陣屋として使用し幕末に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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