デジタル大辞泉
「駿府城」の意味・読み・例文・類語
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駿府城
徳川家康が2代将軍秀忠に将軍職を譲った後、全国の大名に命じて既存の城を改修させ1607年に移り住んだ。本丸北西部分に江戸城をしのぐ7階建ての天守閣を据えたとされ、石垣造りの堀で三重に囲んだ。大御所として幕政を左右し、権勢を誇示する舞台となった。35年に城下での火事が燃え移り、天守閣や御殿などが焼失。天守閣はそれ以降、再建されていない。
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すんぷ‐じょう‥ジャウ【駿府城】
- 静岡市にあった平城。戦国大名今川氏の居館だった所で、天正一四年(一五八六)徳川家康が入城。慶長一二年(一六〇七)隠居所として新たに拡張。同年末全焼、翌年再建開始。家康の子頼宣が同居、徳川忠長除封後は直轄の番城となった。明治初年破却され、石塁と濠(ほり)が一部残存。府中城。府城。浮島城。霧隠城。静岡城。
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すんぷじょう【駿府城】
静岡県静岡市にあった平城(ひらじろ)。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。徳川家康が1585年(天正13)に、安倍川の扇状地につくられた駿河守護今川氏の居館があった場所に築城を開始し、浜松城から居城を移した城である。もともとは、14世紀に室町幕府から駿河守護に任じられた今川氏によって居館(今川館)が築かれ、領国支配の拠点となった。その後、武田信玄の駿河侵攻により今川氏(今川氏真)はこの館から駆逐され、城館は失われた。1582年(天正10)、武田氏が滅亡すると、甲斐・駿河の武田遺領は三河の徳川家康が領有。家康は旧今川館跡に新たに近世の城郭を建設した。このとき天守閣もつくられた。小田原北条氏滅亡後の1590年(天正18)、家康は豊臣秀吉の命令により関東へ国替えとなり江戸城に居城を移し、駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城した。江戸時代に入り、家康は将軍職を徳川秀忠に譲ると、1607年(慶長12)に再び駿府城に居城を移したが、その際に大改修が行われ、現在残っている駿府城の3重の堀を持つ輪郭式平城の縄張りができあがった。しかし、1607年(慶長12)に天守や本丸御殿などが城内からの失火により焼失。その後直ちに再建され、1610年(慶長15)に天守曲輪(くるわ)などが再建された。家康はこの城で大御所として実権をにぎったため、駿府は江戸と並ぶ政治・経済の中心として栄えた。1635年(寛永12)、城下の火災による延焼で、天守閣を含む城の大半の建物が焼失した。その後、天守は再建されることなく明治を迎えた。現在、外堀と中堀の間に位置する旧三の丸は官庁や学校などの公共施設が建つエリアになっているが、中堀内側の旧本丸・二の丸は駿府公園として整備されている。石垣と中堀・外堀が当時の遺構で、明治時代に陸軍歩兵第34連隊の駐屯地になった際に埋め立てられた内堀(本丸堀)の一部のほか、二の丸巽櫓(たつみやぐら)・東御門(櫓門)と続多聞櫓が復元され、2007年(平成19)には坤(ひつじさる)櫓の復元が行われた。なお、駿府城のお万(家康の側室)の居間が妙法華寺(三島市)に移築され、奥書院として現存している。これが駿府城の唯一の現存する建築物で、三島市の文化財に指定されている(非公開)。JR東海道本線・東海道新幹線静岡駅から徒歩約10分。◇府中城、静岡城ともよばれる。
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駿府城
すんぷじょう
室町期~江戸期の城。静岡市葵区(あおいく)駿府公園、城内町(じょうないちょう)、追手町(おうてまち)、駿府町にまたがる。駿河(するが)守護今川氏が守護所を置いた所で、中世では府中城、府中館(やかた)あるいは今川館などともよばれた。今川氏の駿府進出については、初代範国(のりくに)のとき(南北朝争乱期)に館を築いていたのか、4代範政(のりまさ)のとき(南北朝合一後)に初めて駿府に進出したのかについて意見が分かれている。館は1568年(永禄11)10代氏真(うじざね)のときに武田信玄(しんげん)に攻められて焼かれた。1582年(天正10)武田氏を追い出し、徳川家康が本拠を浜松からここに移し、85年から89年まで大規模な築城工事が行われた。完成の翌年家康は江戸に転封され、そのあと中村一氏(かずうじ)が入り、関ヶ原の戦い後、内藤信成(のぶなり)が入った。家康は将軍職を秀忠(ひでただ)に譲ったあとこの城に入り、1607年(慶長12)から16年(元和2)に死ぬまでの10年間隠居城とした。この10年間を大御所(おおごしょ)時代とよぶ。のち徳川頼宣(よりのぶ)や徳川忠長(ただなが)などが入ったが、やがて駿府城代(じょうだい)が置かれ幕府の直轄領となった。
[小和田哲男]
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駿府城【すんぷじょう】
静岡市にあった城。徳川家康が1585年から3年余で築城。駿河(するが)など5ヵ国支配の拠点とした。家康が関東に移転後,中村・内藤2氏が入封。1607年家康が隠居地に定め,同年越前(えちぜん)・美濃(みの)など5ヵ国大名に助役を命じ,畿内と丹波(たんば)など5ヵ国大名に人夫を出させ,城地を拡張,天守閣を中心に,本丸・二の丸・三の丸が三重の堀で囲まれた城に一新。しかし同年末焼失,翌年再建されたが,1635年天主・殿閣などの大部分を焼失,以降再建されなかった。家康死後は徳川頼宣(よりのぶ),同忠長(ただなが)が入城したが,忠長改易後は番城となり,駿府城代が置かれた。本丸は明治に取り壊され,跡地は現在駿府公園。
→関連項目大御所政治|駿府記|駿府町奉行
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駿府城
すんぷじょう
府中城,霧隠山浮島城ともいう。静岡市 (もと駿河国府の所在地) にあった平城。平安時代中期,源満仲がここに築城し,その子頼光,さらにその子へと伝えられたという。建武中興の際は,脇屋義助が領し,南北朝時代には南朝方中賀野氏,入江氏が築城したが,北朝方に抜かれてのちは,今川氏の領有となった。以来,今川氏の居城として繁栄し,永禄 11 (1568) 年今川氏の滅亡後は,一時武田氏の領有下に入ったが,天正 10 (82) 年に徳川家康が武田氏を追払い,同 13年修築して居城とした。同 18年家康の江戸入府後,中村氏,内藤氏がいたが,家康が将軍職を退くと慶長 11 (1606) 年大修理を行い入城した。元和2 (16) 年家康の死後,その子頼宣の居城となったが,同5年紀伊移封に伴い,城番がおかれた。寛永2 (25) 年より同9年までは徳川忠長が入ったが,その後は在番,城代制をしいて明治にいたった。明治維新にあたって第 15代将軍慶喜の跡を継いだ家達 (いえさと) が入って静岡城と改称し,最後の藩政を行なったが,まもなく廃藩となり,現在駿府城公園として石垣と堀に名残りをとどめている。
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世界大百科事典(旧版)内の駿府城の言及
【加番・加役】より
…正規の勤番に加勢して城郭などを警備する者を加番という。江戸幕府では大坂城と駿府城とに城代,定番,在番に添えて加番が置かれた。大坂加番は大名役で,1709年(宝永6)以降は4員。…
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