日本大百科全書(ニッポニカ) 「張栻」の意味・わかりやすい解説
張栻
ちょうしょく
(1133―1180)
中国、宋(そう)の思想家。字(あざな)は敬夫(けいふ)、一の字(あざな)は欽夫(きんぷ)。号は南軒(なんけん)。広漢(こうかん)(四川(しせん)省)の人、のち長沙(ちょうさ)(湖南省)に移り住む。宰相を務めた父、浚(しゅん)(1097―1164)の恩典で科挙試を経ずに南宋の官僚となった。当時、朱熹(しゅき)(朱子)、呂祖謙(りょそけん)(東莱(とうらい))と並んで東南の三賢と称されたが、48歳で在職中に病没した。二程(程顥(ていこう)、程頤(ていい))再伝の弟子である胡宏(ここう)に師事して聖学(聖人志向の儒学)を修め、日常行動のなかに仁の本体を体得しようとする知覚主義的な動の哲学(胡氏湖南学(こしこなんがく))を継承した。この学風は張栻を通して朱子の定説成立前の未定説に大きな影響を与えたが、のち張栻は逆に朱子の学説に同調し、湖南学から離れた。著作に『南軒文集』などがある。
[福田 殖 2016年2月17日]
『楠本正継著『宋明時代儒学思想の研究』(1962/改定版・1964・広池学園出版部)』▽『友枝龍太郎著『朱子の思想形成』(1969・春秋社)』▽『福田殖著『張南軒』(『朱子学大系 第3巻 朱子の先駆 下』所収・1976・明徳出版社)』