改訂新版 世界大百科事典 「得蔵保」の意味・わかりやすい解説
得蔵保 (とくらのほ)
得蔵荘ともいい,〈とくくら〉ともよむ。加賀国石川郡北部(現,金沢市北西端)の臨海荘園で,犀川河口西岸に近い金沢市専光寺町の戸畔(とくろ)が遺称地と考えられる。1088年(寛治2)醍醐寺少別当賢円が加賀郡大野郷(中世の石川郡大野荘)の一部を再開発し,すでに国衙領として収公されていた寺領加賀国高羽荘,治田(はりた)荘の領有権回復工作を断念する代償として,翌89年に加賀守藤原家道から醍醐寺に充てられ,賢円が保司となった。以後南北朝期までは醍醐寺准胝(じゆんてい)堂領であり,賢円の法脈を継承する理性院が領家職を伝領している。承久の乱後に左近将監則平が地頭に補任されたが,半年足らずで停止された。1110年(天永1)当時の規模は100町,うち本田50町,不作田代(たしろ)50町。1405年(応永12)から08年までの間に臨川寺領大野荘に包括され,大野荘得蔵地頭,領家分となる。95年(明応4)の得蔵分の年貢は21石3斗余にすぎず,戦国期には大野荘のきわめて狭小な付属領となっている。
執筆者:浅香 年木
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報