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大野荘 おおののしょう

世界大百科事典 第2版の解説

おおののしょう【大野荘】

阿波国那賀郡(現,徳島県阿南市)の荘園。《和名類聚抄》の大野郷の地。1159年(平治1),鳥羽上皇の御願寺宝荘厳院の所領目録に記載されている12ヵ荘の一つとして初出。本家は宝荘厳院,領家は藤原季行。このうち本家職は,のちに八条院領に属するが,1330年(元徳2),後醍醐天皇は宝荘厳院を東寺に寄進し,この荘も東寺の支配するところになる。一方,領家職は藤原季行から九条家に移る。1204年(元久1)の九条兼実譲状では本荘と新荘とに分かれているが,このうち本荘については,九条道家の所領処分に際して子どもの実経に譲られ,さらに71年(文永8)には普門寺に寄進された。

おおののしょう【大野荘】

豊後国大野郡(現,大分県大野郡大野町,朝地町)の荘園。大野郷が荘園化したもの。1186‐1198年(文治2‐建久9)の間に京都三聖寺に寄進されたようで,〈三聖寺領文書惣目録〉(年未詳)に〈大野荘 建久九年実検目録送文〉が見え,98年以前に三聖寺が領家となったことがわかる。〈弘安図田帳〉(1285)に面積300町,志賀村73町,上村51町,中村100町,下村76町と見える。建久のころ,中原親能が在地領主大野氏を滅ぼして獲得した地頭職は,養子大友能直に譲与された後,妻深妙を経て7人の子息に配分された。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大野荘
おおののしょう

豊後(ぶんご)国大野郡に存在した荘園。大分県豊後大野市の北部にあたる地域。『和名抄(わみょうしょう)』における大野郷が荘園化したもの。平安末期に、開発領主であった大野氏が京都三聖寺(さんしょうじ)に寄進し、三聖寺領荘園として成立したものと推定される。水田面積は300町で、上村、中村、下村、志賀村の4か村に分かれる。鎌倉初期、大野氏は幕府の追討を受け、中原親能(ちかよし)が総地頭となり、養子の大友能直(よしなお)に継承された。以降この地は豊後大友氏隆盛の基盤となり、惣領制(そうりょうせい)的支配が行われ、庶子家のうち志賀村南方(みなみかた)の志賀氏、上村一万田(いちまだ)氏らが発展した。地頭制の進展とともに領家の支配は形骸(けいがい)化したが、1581年(天正9)ごろまで大友氏による三聖寺への貢納が続けられた。[海老澤衷]
『渡辺澄夫著『豊後国大野荘史料』(1979・吉川弘文館)』

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