大野荘(読み)おおののしょう

百科事典マイペディア 「大野荘」の意味・わかりやすい解説

大野荘(石川)【おおののしょう】

加賀国石川郡の荘園。現在の金沢市の犀(さい)川・大野川河口,中世北加賀の流通拠点となった大野荘湊(宮腰津・大野湊)を中心とした沖積平地を荘域とする。山城臨川(りんせん)寺領。鎌倉末期までには下地中分(したじちゅうぶん)され,地頭職は北条氏得宗(とくそう)。1325年の総田数282町余。臨川寺は建武政権下で地頭職を獲得し,1408年までには山城醍醐寺領得蔵(とくら)保(荘)・伊勢神宮領富永厨(とみながのみくりや)を抱摂して新たな一円寺領の大野荘を形成。しかし南北朝〜室町時代を通じて守護使入部が繰り返され,また荘内吉藤専光(よしふじせんこう)寺など古くからの真宗寺院を拠点に一向一揆が勢力を拡大すると当荘はその管轄下に置かれ,臨川寺の支配は有名無実化した。
→関連項目得蔵保船木関

大野荘(大分)【おおののしょう】

豊後国荘園。古代の大野郡大野郷の地に成立。荘域は現在の大分県大野町・朝地町から千歳村(3町村とも現・豊後大野市)西部にかけて。1198年までに豊後大神氏一族の大野氏によって山城国三聖(さんしょう)寺(現,京都市東山区)に寄進されたと推定される。荘官の大野氏はのち鎮西奉行中原親能(ちかよし)に滅ぼされ,地頭職は親能から猶子大友能直,能直から妻深妙に譲られた。1240年深妙はこれを子息らに配分,以後上村・中村・下村・志賀村の大野荘4ヵ村は一万田氏・託磨氏・志賀氏など大友氏庶流が伝領。《豊後国弘安図田帳》(1285年)では総田積300町,内訳は上村51町・中村76町・下村100町・志賀村73町。鎌倉時代には志賀村(北方南方)・中村・下村で下地中分が行われた。三聖寺領として戦国期まで存続するが,1587年大友義統は大野荘4ヵ村1000貫を豊薩合戦で軍功のあった岡城(現,大分県竹田市)城主志賀親善に与えている。

大野荘(徳島)【おおののしょう】

阿波国那賀郡にあった荘園。大野本荘と大野新荘があり,《和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)》の大野郷の地に成立したとみられる大野本荘は徳島県阿南市北部の那賀川南岸に,大野新荘はその対岸,那賀郡羽ノ浦(はのうら)町(現・阿南市)から小松島市南部にかけてに比定される。1159年の〈宝荘厳院(ほうしょうごんいん)領荘園注文〉に記載される荘園の一つで,鳥羽天皇の御願寺宝荘厳院を本家,阿波守であった藤原季行を領家とする。本家職は1330年宝荘厳院が東寺に寄進されたことにより,東寺に帰した。領家職は1204年以前に九条家に移っており,本荘と新荘に分かれていた。本荘は九条兼実から良経,道家,一条実経と伝えられ,1271年に東福寺普門院(ふもんいん)常楽庵に寄進された。一方新荘は道家から孫忠家へ譲られ,九条家に伝領された。鎌倉後期から新荘の一部が薩摩の渋谷氏領となり,南北朝期まで維持された。南北朝期以降,守護細川氏による押領が続き,東寺・東福寺はしばしば守護の非分押妨を室町幕府に訴えている。

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改訂新版 世界大百科事典 「大野荘」の意味・わかりやすい解説

大野荘 (おおののしょう)

豊後国大野郡(現,大分県豊後大野市の北西部)の荘園。大野郷が荘園化したもの。1186-1198年(文治2-建久9)の間に京都三聖寺に寄進されたようで,〈三聖寺領文書惣目録〉(年未詳)に〈大野荘 建久九年実検目録送文〉が見え,98年以前に三聖寺が領家となったことがわかる。〈弘安図田帳〉(1285)に面積300町,志賀村73町,上村51町,中村100町,下村76町と見える。建久のころ,中原親能が在地領主大野氏を滅ぼして獲得した地頭職は,養子大友能直に譲与された後,妻深妙を経て7人の子息に配分された。1289年(正応2)に志賀村北方で,92年には同村南方で,それぞれ三聖寺と各地頭間で坪分中分をし,さらに1314年(正和3)には南方で分直(わけなおし)一円中分が行われた。1581年(天正9)ころまで大友宗麟(義鎮)と義統父子は当荘を大名請所とし,300貫文で請け負ったが,大友氏の衰退で三聖寺の当荘支配も終わった。
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大野荘 (おおののしょう)

阿波国那賀郡(現,徳島県阿南市)の荘園。《和名類聚抄》の大野郷の地。1159年(平治1),鳥羽上皇の御願寺宝荘厳院の所領目録に記載されている12ヵ荘の一つとして初出。本家は宝荘厳院,領家は藤原季行。このうち本家職は,のちに八条院領に属するが,1330年(元徳2),後醍醐天皇は宝荘厳院を東寺に寄進し,この荘も東寺の支配するところになる。一方,領家職は藤原季行から九条家に移る。1204年(元久1)の九条兼実の譲状では本荘と新荘とに分かれているが,このうち本荘については,九条道家の所領処分に際して子どもの実経に譲られ,さらに71年(文永8)には普門寺に寄進された。南北朝期になると,本家職をもつ東寺は,阿波守護細川氏が荘園の押領を企てていることを室町幕府にくりかえし訴え,普門寺も1368年(応安1)には大野本荘について同様な訴えを起こしている。それ以後のこの荘の動向はあきらかではない。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大野荘」の意味・わかりやすい解説

大野荘
おおののしょう

豊後(ぶんご)国大野郡に存在した荘園。大分県豊後大野市の北部にあたる地域。『和名抄(わみょうしょう)』における大野郷が荘園化したもの。平安末期に、開発領主であった大野氏が京都三聖寺(さんしょうじ)に寄進し、三聖寺領荘園として成立したものと推定される。水田面積は300町で、上村、中村、下村、志賀村の4か村に分かれる。鎌倉初期、大野氏は幕府の追討を受け、中原親能(ちかよし)が総地頭となり、養子の大友能直(よしなお)に継承された。以降この地は豊後大友氏隆盛の基盤となり、惣領制(そうりょうせい)的支配が行われ、庶子家のうち志賀村南方(みなみかた)の志賀氏、上村一万田(いちまだ)氏らが発展した。地頭制の進展とともに領家の支配は形骸(けいがい)化したが、1581年(天正9)ごろまで大友氏による三聖寺への貢納が続けられた。

[海老澤衷]

『渡辺澄夫著『豊後国大野荘史料』(1979・吉川弘文館)』

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世界大百科事典(旧版)内の大野荘の言及

【得蔵保】より

…加賀国石川郡北部(現,金沢市北西端)の臨海荘園で,犀川河口西岸に近い金沢市専光寺町の戸畔(とくろ)が遺称地と考えられる。1088年(寛治2)醍醐寺少別当賢円が加賀郡大野郷(中世の石川郡大野荘)の一部を再開発し,すでに国衙領として収公されていた寺領加賀国高羽荘,治田(はりた)荘の領有権回復工作を断念する代償として,翌89年に加賀守藤原家道から醍醐寺に充てられ,賢円が保司となった。以後南北朝期までは醍醐寺准胝(じゆんてい)堂領であり,賢円の法脈を継承する理性院が領家職を伝領している。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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