徳定村(読み)とくさだむら

日本歴史地名大系 「徳定村」の解説

徳定村
とくさだむら

[現在地名]郡山市田村町徳定たむらまちとくさだ

金屋かなや村の南西、阿武隈川東岸の平地に立地。木賊田とも書いた。中世田村庄に含まれ、永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「一町 八百文 徳定」とみえ、年貢八〇〇文を納めている。天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)には「一町 七百五十文 徳定五十のかかり」とある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「木賊田」とみえ、高六七五石余、田丸氏の知行地。以降の領主変遷下行合しもゆきあい村と同じ。延宝八年(一六八〇)の村高調(福島県史)にも木賊田村とあり、高六七〇石余。

徳定村
とくさだむら

[現在地名]新城市徳定

片山かたやま村の西、杉山すぎやま村の北にあたり、雁峯かんぼう山麓に立地する。慶長九年(一六〇四)検地帳には「徳貞」と記され、田一九町七反余・二四六石余、畑・屋敷(二七筆)四町七反余・五三石余の計二九一石余である。享保一〇年(一七二五)の書上(雁峯山入会古文書)では五四戸、二五七人、牛馬五〇匹である。近世を通じて新城藩領。

村域南部に荒井あらい古墳があり、その東に亀の甲かめのこう古墳があったが今は失われた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報