田村庄(読み)たむらのしよう

日本歴史地名大系 「田村庄」の解説

田村庄
たむらのしよう

古代の安積あさか郡域のうち、阿武隈川以東で小野おの保を除く一帯に成立した庄園。阿武隈川の支流大滝根おおたきね川・谷田やた川・うつし川流域、現在の郡山市西田にした町・田村町・中田なかた町と田村郡三春みはる町・大越おおごえ町・常葉ときわ町・都路みやこじ村と小野町の一部を含む一帯に比定される。

建武二年(一三三五)一〇月二六日の陸奥国宣案(伊勢結城文書)に「田村庄」とみえ、当庄などの検断職が結城親朝に与えられている。なおこれより先、元弘三年(一三三三)六月五日の地頭代超円着到状(相馬文書)に「陸奥国田村三川前司入道宗猷女子七草木村地頭藤原氏」とみえ、当庄の庄司の系譜を引く藤原姓田村庄司氏が当庄を支配していたと考えられる。「古今著聞集」巻二〇(馬允某陸奥国赤沼の鴛鴦を射て出家の事)に「みちのくに田村の郷(中略)前刑部大輔仲能朝臣が領」とみえる。この仲能は藤原秀郷九代の孫で田村を号した仲教の子で、中原親能の養子となり鎌倉亀谷かめがやつに住し幕府評定衆になっている(尊卑分脈)。実父の仲教の代から田村を号するようになっているので、当庄が藤原姓田村氏の所領となったのは文治五年(一一八九)の奥州合戦によってであろう。元弘元年九月二〇日、笠置かさぎ(現京都府笠置町)に立籠った後醍醐天皇を討つため鎌倉を出立した幕府軍のなかに、伊達入道と並んで田村刑部大輔入道の名がみえる(「太平記」巻三)。建武三年二月二日、田村一族の軍忠が上野入道(結城宗広)を通じて賞されており、南朝方として第一回の北畠顕家上洛に従って戦っている(「北畠親房御教書案」伊勢結城文書)。延元三年(一三三八)一一月頃には「田村庄司一族中、少々違変之由聞候」と、南朝方についた田村一族内部にも動揺がみられる(同月一一日「北畠親房御教書写」松平結城文書)

興国二年(一三四一)七月二二日、南朝方の五辻清顕は白河修理権大夫に対して、単独ないしは伊達勢と協力して常陸府中を攻撃するよう依頼し、田村・石川両勢だけでも下向したならば、近辺の南朝方とともにみずから攻撃するつもりでいると伝えている(「五辻清顕書状」伊勢結城文書)

田村庄
たむらのしよう

古代の田村郷(和名抄)に成立した荘園と考えられる。荘域を示す史料はなく判然としないが、田村郷の比定からいえば佐濃谷さのだに川流域の壱分いちぶ大井おおいせき三分さんぶ平田ひらた辺りと推定される。

荘名の初見は建久二年(一一九一)一〇月日付長講堂所領注文(島田文書)で、長講ちようこう堂領であったことが知れ、一年間の課役が記される。

<資料は省略されています>

長講堂は後白河法皇の御所六条殿ろくじようどの(跡地は現京都市下京区)内にあった持仏堂である。

田村庄
たむらのしよう

物部ものべ川下流の右岸に位置する荘園。室町時代には北の田村上庄、南の田村下庄に分れていたと考えられる。弥生時代や中世の遺跡があり、条里制の遺構も残る土佐の先進地域にあたる。

和名抄」に田村郷がみえるが、早く荘園化したとみえ、「性霊集」巻八の「為弟子僧真体設亡妹七々斎并奉入伝灯料田願文」に「田村庄」とみえ、天長三年(八二六)一〇月八日空海の弟子僧真体が亡妹の七七日の忌にあたって久満くま(現高知市)などとともに山城神護寺に伝法料田として寄進している。鎌倉時代当庄は後嵯峨院領でのちに亀山院に伝領された皇室領となっていたといわれるが(荘園目録)、皇室領への転化の具体的な事情は不明のようである。

元亨四年(一三二四)二月一三日、三池道覚は三人の子に所領を譲与するが、嫡子貞鑑(入道道喜)分として筑後国三池南郷などの地頭職のほか、土佐国田村郷を譲与している(「三池入道道覚所領処分状案」三池文書)

田村庄
たむらのしよう

興福寺領荘園である。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の山辺郡に「田村庄廿七町八反 本願施入田」とある。本願(藤原不比等)の施入田に始まる荘園というが、官省符田であったものか。その田畠の条里(括弧内は坪数)は、一〇条五里(九)・六里(六)、一一条五里(六)・六里(六)である。この条里によると、田村庄の所在は現町に比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報