日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳山藩」の意味・わかりやすい解説
徳山藩
とくやまはん
長州藩(山口)毛利(もうり)氏の支藩の一つ。周防(すおう)国(山口県南東部)都濃(つの)郡24か村、熊毛(くまげ)郡1か村、佐波(さば)郡1か村、長門(ながと)国(山口県北西部)阿武(あぶ)郡2か村を領有した。毛利輝元(てるもと)の二男就隆(なりたか)を祖とし、1617年(元和3)に3万石の分与を受け、34年(寛永11)に幕府によって諸侯に列せられた(下松(くだまつ)藩)。就隆は最初、都濃郡下松に居館を構えたが、交通の便から同郡野上(のがみ)に移って城下町を整備するとともに、1650年(慶安3)に地名を徳山と改めた。以降徳山藩を称するようになった。知行高(ちぎょうだか)は寛永(かんえい)検地で4万0010石となったが、宗(そう)藩から幕府への届出は4万5000石となり、これが公称高となった。3代元次(もとつぐ)の1716年(享保1)には、境界のもつれから宗藩との間に不和を生じ、ついには徳山藩の断絶にまで発展し、領地の宗藩への没収とともに、元次は出羽(でわ)国新庄(しんじょう)藩(山形県新庄市)へ預けられた。藩の再興が許されたのは1719年で、嫡子元堯(もとたか)に改めて3万石が分与された。その後、1836年(天保7)に1万0010石の加増をもって城主格の待遇を幕府から認知された。
産業としては造紙業があり、山間部の須万(すま)村と5か村(大向(おおむかい)、大道理(おおどうり)、川曲(かわまがり)、四熊(しくま)、上村(かみむら))を主要産地とし、年貢に紙を納める請紙(うけがみ)制を採用するとともに、その保護育成に努めた。瀬戸内側では塩田も発達し、紙とともに主要な産業であった。歴代藩主は、就隆、元賢(もとかた)、元次、元堯、広豊(ひろとよ)、広寛(ひろとも)、就馴(たかよし)、広鎮(ひろしげ)、元蕃(もとみつ)。広鎮の子元徳(もとのり)が宗藩を継いだこともあって、廃藩に先だち1871年(明治4)長州藩に合併した。
[吉本一雄]