野上村(読み)のがみむら

日本歴史地名大系 「野上村」の解説

野上村
のがみむら

[現在地名]福山市野上町一―三丁目・古野上ふるのがみ町・光南こうなん町二―三丁目・地吹じぶき町・西桜にしさくら町一丁目・かすみ町四丁目・御門みかど町一―三丁目・明治めいじ

中世の吉津よしづ庄の地先に芦田あしだ川の流す土砂により自然に形成されたデルタにできた村。中世後期―近世初期は常興寺じようこうじ山および西麓一帯の称であったようで、築城・城下町形成時に常興寺山麓に住んでいた農民を、そこから西南方の城下西にし町に接した地に移し、城下町が拡大するに及んでさらに南に移した。最初に移った地を古野上ふるのがみ、のちに移った地を七軒屋しちけんやとよんだ(福山志料)。「江木鰐水日記」明治六年(一八七三)六月二八日条に「福山本城之地、本野上村之為古地、今之古地百姓住焉、(中略)先封水野侯御築城之節、御取上ニテ、右百姓今ノ野上ノ地を賜、村替被仰付、野上地二百五十石高御取上ニ、本城御築立被遊、乃只今ノ一二三御堀へかけ、西町一面ノ地ハ、野上之地ニ御座候」とみえ、明治維新後野上村民は旧地の返納を願出ている。


野上村
のがみむら

[現在地名]九重町野上

右田みぎた村の東、玖珠郡の東端部を占める。北は平家へいけ山・よこ山などにより松木まつぎ村、南は崩平くえんひら山北麓で田野たの村、鹿伏かぶし岳北麓で後野上うしろのがみ村と境を接し、村内をこれらの水を集めた野上川が西流する。中世は飯田はんだ郷の内としてみえる。「薩藩旧記雑録」の天正一五年(一五八七)正月二六日条に球珠郡野上城とみえ、諸城主の大半が島津氏の麾下に入り、さらに川上・町田・新納の三将が下城を攻略、五日後に同城は落城するが、このとき岐部きべ恵良えらなどもすべて降ったという。同年三月一二日野上の陣を払い、その夜武宮たけみや(現庄内町)に在陣、府中へ向けて撤退している。


野上村
のがみむら

[現在地名]黒羽町北野上きたのがみ

御亭こてや(五一二・九メートル)の東麓を東から西へ流れる那珂川支流野上川とその支流の流域山間部、北西を南流する松葉まつば川流域に位置し、東部に萬蔵山(四九一メートル)がある。西は前田まえた村・堀之内ほりのうち村、南東は唐松からまつ峠を越えて須佐木すさき村。康安二年(一三六二)四月一五日の那須資高譲状(結城小峰文書)那須北条なすほうじよう郡内としてみえる「五ケ郷内野上郷」は当村に比定される。野上郷は那須氏と推定される資高より、惣領資直に譲られている。応永(一三九四―一四二八)頃、伊王野氏当主の伊王野入道は某氏と相談して、野上を入道の死後、白河結城氏の一族和知美濃守の知行とすると決めていたが、養子を迎えて野上の譲与を渋ったため相論となっている(九月一八日「大関忠増書状」同文書など)


野上村
のがみむら

[現在地名]関ヶ原町野上

関ヶ原村の東、あい川右岸に立地する。近世は中山道関ヶ原宿と垂井たるい宿の間宿として街道沿いに集落が並び、北側の集落には高札が置かれていた(分間延絵図)。野上の地名は美濃の旧国名である三野みの(御野)の上方にあるところから起こったという。「日本書紀」天武天皇元年(六七二)六月二七日条に野上行宮のことがみえ、壬申の乱に際して大海人皇子は当地に本営を設け、乱の終息までこの野上行宮で指揮を執った。「和名抄」記載の不破郡野上郷の遺称地で、東山道の宿駅として重要な位置にあった。「更級日記」に「美濃の国になる境に、墨俣といふ渡りして、野がみといふ所に着きぬ」とみえ、遊女がいたという。「六百番歌合」には傀儡子もいたとある。平忠常の乱で捕らえられ、京に護送された忠常は長元四年(一〇三一)六月六日中途の野上で死去している(「左経記」同月一一日条)。「吾妻鏡」承久三年(一二二一)六月七日条によれば承久の乱のなかで東山道・東海道を進んだ幕府軍は合流して「野上垂井両宿」で軍を整え、合戦の検討を行っている。


野上村
のがみむら

[現在地名]山方町野上

久慈川の西岸に位置し、西北には低い山がある。那珂台地の最北端にあたり、北は枇杷びわ川を境に山方村。南郷なんごう街道に沿う街村。天正一五年(一五八七)の義和判物写(水府志料所収文書)

<資料は省略されています>

とみえる。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「千三百九拾九石八斗六升六合 野上村」とある。「水府志料」によると村の東西三五町・南北四七町、戸数およそ九六、水戸まで七里半であった。元禄一四年(一七〇一)の立原氏由緒書(「水府志料」所収)には「立原氏本国常陸、姓平氏也、世々佐竹氏之家臣也、曾祖父立原大炊助、仕佐竹義宣主、領野上村之内篠野沢、永楽弐拾貫文内三貫文、同村羽場其居宅領也、其文書今相伝也」「元祖大炊助弟曰立原丹後、仕佐竹氏之家臣東中務、給野上村本蔵拾五貫文、豊臣太閤朝鮮陣之時、為中務使者到朝鮮、後従佐竹氏再到朝鮮也」とある。


野上村
のがみむら

[現在地名]青梅市野上町

河辺かべ村の北に位置し、青梅街道が通る。地名は武蔵野の上筋に立地する意かという。野上春日神社蔵の天文七年(一五三八)の納経銅札銘に「杣保野上郷住聖伝覚」などとみえ、そま保内とするが、これより古く文安二年(一四四五)一二月一〇日の鰐口銘に「杣保野上郷蔵沢村」(現奥多摩町)などとあり、寺社関連などの金石文に多い単なる通称としてもいささか広域にすぎる感がある。慶長一六年(一六一一)南東の新町しんまち村開発願書に「三田領杣保野上之郷武蔵野」とあり、またその立村に際して野上村の地先五町下に屋敷を定め、同地先の東西一八ヵ町を新町の規模とするなど、当村を起点としていた(以上「仁君開村記」吉野家文書)


野上村
のがみむら

[現在地名]烏山町野上

たき村の南東に位置する。東は南流する那珂川、西は同川水系に属し南東流する川におおむね画され、集落は江川左岸段丘上の台地にある。北は烏山城下、南は江川を挟み向田むかだ村。那珂川には野上河岸があった。地内には縄文時代の野上穴切のがみあなぎれ遺跡や富士山ふじやま遺跡、中世の野上要害跡がある。「那須記」によれば、永禄一一年(一五六八)那須氏一族の興野(堅田)義成は大関高増らの上那須衆と烏山城主那須資胤との和解調停を図り、その功により資胤から野上のうちで五〇貫の地を与えられたという。


野上村
のがみむら

[現在地名]八百津町野上

木曾川中流域右岸にあり、西はいし川を経て和知わち村、東は細目ほそめ村。村の中を古東山道が和知村傾城けいせい坂を経て上飯田かみいいだ村へ通じ、また大門西だいもんにし太田おおた道が分れる。古代条里の跡を示す六ノ坪・柿ノ木坪などの字名がある。享徳元年(一四五二)一一月二七日の善恵ぜんね寺宛の斎藤利永寄進状(善恵寺文書)に「右野上郷年貢之内、太糸代拾弐貫文」とある。


野上村
のがみむら

[現在地名]萩原町野上

羽根はね村の北、飛騨川西岸にあり、くろ谷が飛騨川に流入する。川沿いに川西かわにし街道が通る。西方馬瀬まぜ(現馬瀬村)へはすぎ谷を登り連坂れんざか峠を越える道が通じていた。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳では中江なかえ郷に属し、高一四六石余。元禄八年(一六九五)の検地帳(熊崎文書)によると中呂ちゆうろ郷に属し、高一八七石余、田一〇町九反余・畑一五町一反余、家数六〇(百姓四二・家抱一八)。安永二年(一七七三)の地改帳(同文書)では地改分二一石余・一町四反余が増加しているが新開はなく、新田検地帳は交付されていない。「飛騨国中案内」によれば免五割一分二厘、家数六一、うち百姓四五・地借り三・門屋一三。寛政一二年(一八〇〇)の村明細帳によると高二〇九石余、田一〇町九反余・畑一五町一反余、百姓持栗林三反余があった。


野上村
のがみむら

[現在地名]粉河町野上

名手なて川東側の段丘地帯に位置し、北は東川原ひがしかわばら村、東は切畑きりはた(現那賀町)に接する。野上の名は承安二年(一一七二)二月二八日付の粉河寺牒(勧学院文書)に「野上住人」とみえるのが早く、建暦三年(一二一三)二月七日付の上津道太子田地去状(又続宝簡集)に「在名手大塔御庄之内字野上炭釜」、嘉禎四年(一二三八)八月晦日付の山籠恵印田地売券(同集)には「在紀伊国那賀郡大塔御領名手庄野上村字炭釜」とみえる。


野上村
のがみむら

[現在地名]富岡市野上

かぶら川が北境を東流し、東は後箇ごか村、西は馬山まやま村・栗山くりやま(現甘楽郡下仁田町)、南は岩染いわそめ村と秋畑あきはた(現同郡甘楽町)と接する。天正七年(一五七九)二月八日の貫前ぬきさき神社の指出注文(小幡文書)によると、小幡氏に対する夫免・無年貢地一一貫五〇〇文の同社領が「野上之内」にあった。「皆川家記録」によると皆川氏家臣の酒巻蔵主が、天正一二年九月一二日に「上州野上」で討死したという。元和七年(一六二一)の年貢皆済状(牧野文書)には高八〇〇石とある。近世はおおむね七日市藩領。寛文郷帳の高六九五石、うち畑方五四七石余。天明三年(一七八三)写の領内村高等覚(保阪文書)によると田六町九反八畝余・畑一一四町二反六畝余。


野上村
のじようむら

[現在地名]豊岡市野上

円山まるやま川の東岸、もり村の北に位置する。江戸時代の領主の変遷は立野たちの村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高四七八石余。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高五八四石余。天明八年(一七八八)の城崎郡明細記(河本家文書)では高四七八石余、別に野田のだ庄入作分一〇〇石があり、小物成は合計米二石九斗余と桑小物成計銀二二四匁九分余、家数七五・人数三七一、鎮守は山本やまもと村の貴船きふね大明神(現兵主神社)


野上村
のがみむら

[現在地名]敦賀市野神のがみ新和しんわ町一―二丁目

一本松いつぽんまつ村の南、敦賀平野の中央に位置する。永享二年(一四三〇)五月二七日付斯波義淳西福寺寺領安堵状(西福寺文書)に「島郷内野神」とみえ、慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図でも島郷高二千四一一石余に属する。正保郷帳で野上村と出、田方三六七石余・畠方九石余。享保一二年(一七二七)敦賀郷方覚書によれば、庄屋新三郎、入木銀二一匁余、牛馬銀一〇匁余、入草銀一八匁余、雉札一匁、夫役四分、夫米三俵余、外高分五石余、馬足一八疋、牝馬七、牛一、家数三四(ママ)(うち高持一四・無高二一)、人数一六六。


野上村
のがみむら

[現在地名]大熊町野上

くま川上流左岸にあり、南は大川原おおがわら村、東は下野上村、西は熊川の源流深く阿武隈高地の分水嶺まで延びる。のちに分村する下野上村が俗に大野おおのッ原という原野であったため、その水上の意の地名で、この地を流れる熊川の河床が高く、引水可能だったことによるといわれる。寛永一六年(一六三九)の検地高二七六石余(相馬藩政史)。正保郷帳では田方一三七石余・畑方四五石余。元禄郷帳では野上村は高二一八石余、下野上村は高二四八石余、坂下さかした新田は高一三三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

世界の電気自動車市場

米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...

世界の電気自動車市場の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android