徳重村(読み)とくしげむら

日本歴史地名大系 「徳重村」の解説

徳重村
とくしげむら

[現在地名]伊集院町徳重・妙円寺みようえんじ

下谷口しもたにぐち村の北、猪鹿倉いがくら村の西に位置し、神之かみの川が東部を南西流している。下谷口村との境を出水いずみ筋が通る。こおり村・麦生田むぎうだ村を経て吉田よしだ(現吉田町)に至る道が南北に通る。鎌倉後期と推定される伊集院分造宇佐宮用途支配注文(島津家文書)に「得重」とみえ、豊前宇佐宮造営用途四四疋・人夫食料米九斗二合五勺が賦課されている。文保二年(一三一八)三月一二日の鎮西下知状案(同文書)所引の嘉元四年(一三〇六)三月一二日の和与注文に「得重」とみえ、得重とくしげ内の原田はらだ字六段田二反と樋脇ひわき三反四〇歩ほかをめぐり上神殿次郎太郎祐継(迎祐)と伊集院郡司時継(迎念、紀姓伊集院氏か)が争っていた。文保二年一二月には原田太郎入道浄法が得重の領主であったとみられる得重五郎助道を殺害刃傷の科で訴えている(同三年一月二三日「鎮西奉行人奉書」旧記雑録)。なお浄法も得重名内原田の領主であった可能性があるが、伊集院内用丸もちまる名内にも原田の地名があり、いずれか判然としない。


徳重村
とくしげむら

[現在地名]宗像市徳重・徳重一―二丁目・葉山はやま一―二丁目・緑町みどりまち広陵台こうりようだい一―二丁目・同四―五丁目・さくら一丁目

つり川上流左岸に位置する。赤間あかま村の南東にあり、東の藤原ふじわら村との境に名残なごり川が流れている。小早川時代の指出前之帳では鞍手くらて郡徳重村の田二〇町五反余(分米二七九石余)・畠六町余(分大豆三五石余)。文禄三郡内知行方目録にも同郡に「とくしげ村」が載る。慶長九年(一六〇四)の宗像郡徳重村の検地高七三九石余(慶長石高帳)


徳重村
とくしげむら

[現在地名]今治市徳重

今治平野のほぼ中央に位置し、東西を中寺なかでら村と村に挟まれる細長い村で、南は新谷にや村、北は蒼社そうじや川により別名べつみよう村と境する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)越智おち郡の項に「徳重村 定水所、川有」とみえ、村高は三四四石一斗八升である。同年の今治御領分新高畝村人数帳には、田畑一八町八反、新田畑三反、人数は六五人とある。


徳重村
とくしげむら

[現在地名]西春町徳重

鍛冶かじ一色いしき村の東にあり、村の東を岩倉街道が通り、北境を五条ごじよう川が流れている。この地は得重とくしげ保のあった地と考えられる(→得重保。文和二年(一三五三)には七貫五〇〇文の正税を納めている(中院文書)。正長二年(一四二九)の尾張守護斯波義淳遵行状(岡谷惣介氏所蔵文書)に「徳重保」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android