志和池城跡(読み)しわちじようあと

日本歴史地名大系 「志和池城跡」の解説

志和池城跡
しわちじようあと

[現在地名]都城市上水流町

大淀川北岸の台地南端にある。鶴丸つるまる城ともよばれた(三国名勝図会)築城の時期、築城主は不明。永享年間(一四二九―四一)頃の城主は高木氏であったらしい(永享四年七月一三日「樺山孝久書状」樺山文書など)。高木氏は野々美谷ののみたに城主樺山氏と縁戚関係にあったが、島津氏内部の争いのなかで、文安五年(一四四八)高木殖家が島津忠国により殺害され(島津国史)、当城には忠国の弟忠豊、その子忠尭が入った。文明一六年(一四八四)忠豊は飫肥おびで戦死し、その後忠尭の子忠常が継承したらしい(志和池氏系図)。明応三年(一四九四)六月伊東氏は兵を率いて島津忠常の拠る志和池城を攻め、山田やまだ(現山田町)の北原氏は伊東方に援軍を送り、たか(現高城町)の新納忠親らは忠常方を支援した(「閑暇吟」旧記雑録など)。同月一二日の戦いで忠親は志和池野久尾のくびにおいて討死している(「島津忠昌譜」旧記雑録)。島津忠常は北原氏の大軍に攻められたため城を放棄し、その後鹿児島で島津勝久に仕えたのち庄内しようないの北郷忠相に仕えたとされる(「旧記雑録」所引志和地譜)。前掲志和池氏系図では忠常は島津貴久に背いたため北郷氏を頼ってその家臣となり、忠常の子忠光以降志和池を姓としたと記される。

一五世紀末から一六世紀初頭には北原氏方の城となっていたらしく(「北郷家家譜写」北郷文書)。この頃には城下に町場も形成されていたとみられる(年月日未詳「肝付兼演書状案」肝付文書)。志和池は北郷・北原・伊東氏の取り合いの場となっており、永正一七年(一五二〇)のものかと推定される三月一六日付伊東尹祐感状(荒武文書)では荒武藤兵衛尉の同月八日の志和池城攻めでの軍功が賞されている。大永四、五年(一五二四、二五)のものと推定される二月七日付の肝付兼興宛北原久兼書状(肝付文書)には、北郷氏と北原氏は境目で緊張状態にあり、久兼は志和池・山田に城を築き、さらに新納・肝付氏と連携して北郷氏の孤立化を図っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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