日本歴史地名大系 「志和池城跡」の解説
志和池城跡
しわちじようあと
大淀川北岸の台地南端にある。
一五世紀末から一六世紀初頭には北原氏方の城となっていたらしく(「北郷家家譜写」北郷文書)。この頃には城下に町場も形成されていたとみられる(年月日未詳「肝付兼演書状案」肝付文書)。志和池は北郷・北原・伊東氏の取り合いの場となっており、永正一七年(一五二〇)のものかと推定される三月一六日付伊東尹祐感状(荒武文書)では荒武藤兵衛尉の同月八日の志和池城攻めでの軍功が賞されている。大永四、五年(一五二四、二五)のものと推定される二月七日付の肝付兼興宛北原久兼書状(肝付文書)には、北郷氏と北原氏は境目で緊張状態にあり、久兼は志和池・山田に城を築き、さらに新納・肝付氏と連携して北郷氏の孤立化を図っている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報