志和池(読み)しわち

日本歴史地名大系 「志和池」の解説

志和池
しわち

上水流かみづる町の志和池城跡を中心に、下水流町・丸谷まるたに町一帯に比定される。永享四年(一四三二)七月一三日の梅巌和尚侍者中宛樺山孝久書状(樺山文書)によれば、野々美谷ののみたに城主孝久は子鍋増丸への継承とその安穏を「志和池」に求め、「高木殿を一向ニ憑申候より外の無了簡候」としている。同日付の高木氏宛の孝久書状(同文書)があることから、この頃志和池は高木氏の知行下にあったようだ。この時期の島津氏内部の争いのなか、永享一三年五月一〇日の樺山氏宛北郷知久起請文(同文書)によれば、守護島津忠国が境まで出てくる時は樺山氏と談合して志和池へ北郷氏らが軍勢を派遣するとしており、年未詳六月一四日付の北郷知久書状(同文書)によれば忠国は、高城たかじよう(現高城町)への通過のために志和池を経由したものらしい。志和池を所領とした高木殖家は忠国と対立する島津持久(用久)にくみしたこともあってか(嘉吉元年九月一二日「高木殖家契状」同文書)、文安五年(一四四八)島津忠国は和田正存と謀り殖家を殺害した(島津国史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「志和池」の意味・わかりやすい解説

志和池
しわち

宮崎県南西部、都城市(みやこのじょうし)中央北部の地区。旧志和池村。現在の中心集落は上水流(かみづる)。都城盆地の一画にあり、大淀(おおよど)川のつくる沖積平野台地からなり、農業が盛んである。大淀川を見下ろす台地先端に志和池城跡がある。江戸時代は薩摩藩(さつまはん)都城領に属し、麓(ふもと)集落が置かれた。国道221号が通る。

[横山淳一]

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