志度村(読み)しどむら

日本歴史地名大系 「志度村」の解説

志度村
しどむら

[現在地名]志度町志度

寒川さんがわ郡の北西端、西側の庵治あじ半島から、東側小串こぐし岬にかけて深く入込んだ志度湾の最奥部に位置する。南西を雲附くもつけ(二三九・四メートル)南東五瀬ごぜ(二四二・八メートル)に限られた平地に集落が発達し、東は天野あまの峠で鴨部下庄かべしものしよう村に接する。平安初期に志度寺が創建され、また式内社多和たわ神社に比定する説もある多和神社が鎮座する。文治元年(一一八五)二月、屋島の戦で敗れた平氏は志度の浦に退き、それを追った源義経との間に志度合戦があった。「平家物語」巻一一に「あけければ、平家船にとりのつて、当国志度の浦へこぎしりぞく。判官三百余騎がなかより馬や人をすぐつて、八十余騎追てぞかゝりける。平家是を見て、かたきは小勢なり。なかにとりこめてうてやとて、又千余人なぎさにあがり」と記されるが、平家軍は源氏加勢をみて退却、これを最後に四国から落ちていった。中世には一帯志度庄が成立する。村内の字天野は永仁四年(一二九六)五月四日の慈空譲状(徴古雑抄)によると、「くうそう上人」相伝の志度庄内「あまのむら」を譲り受けた慈空が、これを「つるいし殿」に譲渡したとあり、天野村はその後志度寺領となった(永徳二年六月一八日「細川頼之寄進状案」志度寺文書)。室町時代に細川氏の保護を受けて志度寺は興隆し、門前町が形成された。一方、海上輸送の要地でもあった。文安二年(一四四五)の「兵庫北関入船納帳」によると、志度からの船が延べ三艘兵庫北関に入り、大麦・小麦・米を運送している。戦国時代には安富盛長の家臣多田和泉が志度城に拠ったという(全讃史)城跡は旧志度町役場の地でしろ地名が残る。

元和三年(一六一七)六月日の生駒家家老連署定書(志度寺文書)に「当院者東西之阡陌上下之着岸也。是故都鄙之貴賤此砌来臨往来之道俗此処徘徊」とあって、船舶の往来が多く繁栄の様子をうかがわせる。寛永国絵図には志度庄・天野・すえ村を合せて志度庄として高付され、高一千五八八石余。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では末村が分れ、天野村は志度村に含まれ、高一千二二六石余。同一九年の高松領小物成帳によれば小物成は山請銀二一五匁、御菜として米二石四斗・塩四八石。天保九年(一八三八)の御巡見御通筋諸事書上帳(山下文書)によると田方一一五町余・高一千二〇九石余、畑方六〇町余・高三五九石余。夏成として麦一二三石余を納め、自分林九〇ヵ所の運上銀五九九匁余、薪一一束余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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