志賀城跡
しがじようあと
志賀村の枝郷駒込の北方、笠原山頂にあり、東西二〇〇間、南北一〇〇間ほどの平坦地を残す(旧版北佐久郡志)。
「笠原氏、本姓依田、本村に移つて城郭を築き、数世相襲す」、「大永・天文年間威勢盛なり」(長野県町村誌)と伝える城で、天文一六年(一五四七)七月二四日から武田信玄の猛攻を受けて陥落する。
志賀城跡
しがじようあと
[現在地名]日高町志賀
中志賀と下志賀との境に位置し、城の壇の地名が残る。城跡は三河谷に臨む丘上にあって、五段の曲輪跡を残す。段構はきわめて緩やかでほとんど平坦に近く、城は館形式であったとみられる。「続風土記」は「城主詳ならす、或は阿波四の宮の持城なりといふ、鞍か多和合戦の時なと三好氏の族の居城せしにや」とあり、池田の小坊子城の西の守りとして三好義長が一族をここに置き、湯河氏の動きを監視していたものと思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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