日本歴史地名大系 「志賀村」の解説
志賀村
しがむら
大野庄四ヵ村の一つ。現朝地町南部に比定される。延応二年(一二四〇)四月六日大友能直後家尼深妙が能直より譲られた大野庄地頭職などの所領を配分した際、「大野庄志賀村」は二分され、半分地頭職は各々次男宅万別当(詫磨能秀)と八郎(志賀能郷)に譲与された(「尼深妙惣配分状」志賀文書)。このうち能郷に譲られた志賀村南方半分は、
朝倉名を除く南方は弘長二年(一二六二)八月六日に能郷の子泰朝へ譲られたが(「尼深妙譲状」志賀文書)、泰朝は弟禅季に譲られた朝倉名に固執した。このため尼深妙は病気の能郷に代わって朝倉名を泰朝に与え、その替りとして近地名地頭職と
志賀村
しがむら
- 京都府:綾部市
- 志賀村
古代は
と記し、地名変化の来由を伝える。なお田中石見守は元和五年(一六一九)に再興された当村の
志賀村
しがむら
- 長野県:佐久市
- 志賀村
市の東部。
養和元年(一一八一)六月、越後の城氏と
天文一二年(一五四三)から同一三年にかけて、佐久はおおむね武田氏の支配下に入るが、志賀城主笠原新三郎のみは同一六年まで抵抗を続けた(甲陽軍鑑)。
志賀村
しがむら
慶長検地高目録によれば村高一千六五六石余、小物成二・二一一石。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」は「志賀五ケ村」として記し、一千六八一石余で田畑一三四町四反余とし、その内訳を記す。
志賀村
しがむら
志賀村
しかむら
志賀村
しがむら
志賀村
しがむら
- 宮城県:岩沼市
- 志賀村
正保郷帳では田一八貫九四〇文・畑二〇貫七五四文、柴山と注される。
志賀村
しがむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報