志賀村(読み)しがむら

日本歴史地名大系 「志賀村」の解説

志賀村
しがむら

大野庄四ヵ村の一つ。現朝地町南部に比定される。延応二年(一二四〇)四月六日大友能直後家尼深妙が能直より譲られた大野庄地頭職などの所領を配分した際、「大野庄志賀村」は二分され、半分地頭職は各々次男宅万別当(詫磨能秀)と八郎(志賀能郷)に譲与された(「尼深妙惣配分状」志賀文書)。このうち能郷に譲られた志賀村南方半分は、大方おおがた名・いずみ名・近地ちかじ名・朝倉あさくら名の田畠在家と御用作田二町五反(桑原七反・赤滝五反・久木一町三反)からなり、ほかに上家分在家田畠等七ヵ所・大方分八ヵ所を加えた計三〇町五反と薗畠七町八反であった(同日付「志賀村名々并上家分田畠在家等中分注文」同文書)。名の遺称地から南方はほぼ平井ひらい川と大野川本流に挟まれる地域に比定される。能郷は志賀氏の祖となり、同氏は大方名内清五せごに地頭屋敷を構えたと推定される。一方、次男詫磨能秀に譲られた志賀村北方には堀池ほりけ名・板井迫いたいざこ名・宮迫みやさこ名・平井名が含まれ(弘安二年四月三〇日「藤原長秀譲状案」・同一一年四月二五日「詫磨寂尊譲状案」詫摩文書など)、南方の東側の平井川流域にほぼ比定される。配分後まもない建長六年(一二五四)には能秀へ与えられていた上家分のうち庄田か田六反・屋敷一所が、尼深妙から能郷(信寂房)の便宜のため同人へ与えられ(同年六月三〇日「尼深妙置文」志賀文書)、同七年には北方・南方の境をめぐり能秀と能郷の間で争いがあった(同年六月二三日「尼深妙書状」同文書)

朝倉名を除く南方は弘長二年(一二六二)八月六日に能郷の子泰朝へ譲られたが(「尼深妙譲状」志賀文書)、泰朝は弟禅季に譲られた朝倉名に固執した。このため尼深妙は病気の能郷に代わって朝倉名を泰朝に与え、その替りとして近地名地頭職と筑紫尾ちくしお寺を禅季へと譲り直した(同三年七月二日「尼深妙等連署譲状案」同文書)。北方の一部は能秀から子の詫磨長秀を経て長秀嫡子泰長に譲与された(前掲弘安二年藤原長秀譲状案)。豊後国弘安図田帳・豊後国弘安田代注進状によれば志賀村の面積は七三町歩、うち三六町五反が詫磨能秀・同次郎時秀(寂尊)・同新三郎資秀・同四郎太郎泰長配分とある。また三三町一反小が志賀泰朝とその嫡子貞朝分、三町三反が禅季分であった。以後両方とも詫磨・志賀両氏に各々相伝された。北方詫磨祐秀分では正応二年(一二八九)三月に(正和元年一二月一六日「鎮西下知状」志賀文書)、南方では同五年に領家三聖さんしよう(現京都市東山区)との間で下地中分が行われた。


志賀村
しがむら

[現在地名]綾部市志賀郷しがさと町・向田むこうだ町・篠田しのだ町・別所べつしよ町・仁和にわ

何鹿いかるが郡の西北部、さい川の上流域に位置する。東は遅岫おそのくき(現篠田町)から上八田かみやた村へ、南は白道路はそうじ村・物部ものべ村・西保にしのほ村、西北は西方にしがた村より古路ふるじ峠を経て丹後国加佐郡南有路みなみありじ(現大江町)へ、市原いちはら峠を経て加佐郡市原村(現大江町)へ通ずる。

古代は吾雀あすすぎ(和名抄)の地とされ、中世は吾雀荘域。吾雀から志賀に変化した時期は明らかでないが、永正九年(一五一二)二月一〇日付の譲状(志賀家文書)に、「丹波国何鹿郡吾雀庄之内山(尾カ)永代譲渡田畠山林等并下人等事」として「志賀八郎右衛門尉殿」とあり、この地域に志賀姓を冠した土豪のいたことが認められる。元亀二年(一五七一)の田地売券(同文書)には「志賀山尾分」とあって志賀が地名化していく過程がうかがえる。園部藩記録(「何鹿郡町村誌」所引)は、

<資料は省略されています>

と記し、地名変化の来由を伝える。なお田中石見守は元和五年(一六一九)に再興された当村の興隆こうりゆう寺鐘銘にその名がみえる。


志賀村
しがむら

[現在地名]佐久市志賀

市の東部。志賀しが川の谷に散在する駒込こまごめ本郷ほんごう海老在家えびざいけ五十貫ごじつかんなどの集落よりなる村。東部の山地は現在妙義荒船佐久高原みようぎあらふねさくこうげん国定公園に属し、現群馬県甘楽かんら下仁田しもにた町の神津こうづ牧場に接し、南は内山うちやま川、北は香坂こうさか川の谷である。

養和元年(一一八一)六月、越後の城氏と横田よこた河原で戦った木曾義仲の軍に志賀七郎・八郎があり(参考源平盛衰記)、承久三年(一二二一)六月の承久の乱で小笠原氏の軍中に「志がの三郎」がみえる(承久兵乱記)

天文一二年(一五四三)から同一三年にかけて、佐久はおおむね武田氏の支配下に入るが、志賀城主笠原新三郎のみは同一六年まで抵抗を続けた(甲陽軍鑑)


志賀村
しがむら

[現在地名]日高町志賀

西にし山の北側に広がる大村。ほぼ中央を西川支流が貫流する。東は小中おなか村、西は海辺の諸村に接する。

慶長検地高目録によれば村高一千六五六石余、小物成二・二一一石。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」は「志賀五ケ村」として記し、一千六八一石余で田畑一三四町四反余とし、その内訳を記す。下志賀しもしが村は高五八九石余で田畑五〇町五反余、家数九六(本役二三、半役三六、無役一三、木挽・庄屋・ありき各一、年寄五など)、人数四五〇、牛三六、馬一六、池一六、狼烟場一(飯盛山)。中志賀村は高四〇八石余で田畑三三町一反余、家数九〇(本役二二、半役四二、無役一八、大工・桶大工・ありき各一、庄屋年寄三など)、人数四一八、牛二九、馬一八、池七。


志賀村
しがむら

[現在地名]かつらぎ町志賀

紀ノ川南部の山地を流れる真国まくに川流域にある。北は下天野しもあまの星山ほしやま日高ひだかの諸村。寛弘元年(一〇〇四)九月二五日の太政官符案(前田家本「高野寺縁起」所収)によれば、志賀の地は花園はなぞの(現花園村)などとともに、高野山金剛峯寺と中納言平惟仲との係争地の一つであった。古く志賀郷と称され、高野山領六箇七ろつかしち郷に属した。治承三年(一一七九)四月一五日付の僧浄昭田地去渡状案(中家文書)に「志賀郷内くるミ谷」の地名がみえ、正平二二年(一三六七)一二月八日付の志賀郷并鼻坂村在家取帳(又続宝簡集)によれば、郷内の在家は三六宇であった。


志賀村
しかむら

[現在地名]嵐山町志賀しが川島かわしま

菅谷すがや村の北にあり、村域は市野いちの川右岸の低地・丘陵部を占める。北は同川を隔てて杉山すぎやま村。村内を南北に川越秩父道が通る。古くは四ヶ村・志ヶ村・鹿村などとも記した(「風土記稿」など)。地名の由来は、河岸・川畔にみられる砂地を表す言葉「スカ」が転訛したものという説もある(埼玉県地名誌)。「風土記稿」では寛文年間(一六六一―七三)菅谷村から分村したといい、「菅谷村の沿革」に寛文五年の検地帳がみえることから、同年頃の分村と考えられる。


志賀村
しがむら

[現在地名]朝地町志賀、緒方おがた町志賀

宮迫みやざこ村の南西、大野川北岸にある。大野庄志賀村の遺称地で、大友支流志賀氏の名字の地。天正一三年(一五八五)頃志賀親次(ドン・パウロ)がキリスト教に帰依したことによってか、志賀にはイエズス会の教会が建てられた(一五八五年「日本年報追加」)。この教会には司祭と修士各一名がおり(日本切支丹宗門史)、当地が岡藩領となって以後も慶長一九年(一六一四)頃まで存続した(一六一四年「日本年報」)


志賀村
しがむら

[現在地名]岩沼市志賀

高館たかだて丘陵の西方山間部、東へ流れる志賀沢しがさわ川上流域にある。北は笠島かさしま(現名取市)、東は小川おがわ村、南は猪倉いのくら(二四五・四メートル)を境に柴田郡富沢とみざわ(現柴田町)。「和名抄」名取郡七郷のうち、指賀しが郷の比定地。天文八年(一五三九)九月一三日の伊達稙宗安堵状(伊達家文書)によれば、正円の方よりの買地名取庄のうち「しかのいのかう一円」が福田玄蕃に安堵されたことがみえる。この「しかのいのかう」は当地をさすのであろうか。同二二年集成の晴宗公采地下賜録では泉田伊豆守に宛て「しかのかう、みうら越中」の棟役・段銭・諸公事免除が申渡されている。

正保郷帳では田一八貫九四〇文・畑二〇貫七五四文、柴山と注される。


志賀村
しがむら

[現在地名]笠懸村鹿しか

北は鹿田しかだ村、南は桃頭ももがしら村、東は加波かは村。寛文年間(一六六一―七三)の笠懸野開発により鹿田村地先に成立した新田村。寛文一一年の岡上開拓絵図(片山家蔵)に「鹿田村鹿皮村新田場」とあり、一八万六千四一八坪。元禄一〇年(一六九七)の笠懸野新田絵図(同家蔵)に「鹿田新田」とみえる。元禄郷帳に村名がみえ、幕府領。慶応三年(一八六七)前橋藩領。寛政一一年(一七九九)の村明細帳(岩崎文書)によれば、鹿田村持添で民家はなく、助郷・人馬継立も負担しない。


志賀村
しがむら

[現在地名]吉野町大字志賀

東千俣ひがしちまた村の東にある。竜門りゆうもん郷のうち。慶長郷帳では村高三九六・〇二石。江戸時代を通じて旗本中坊(左近)氏領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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