慶政(読み)けいせい

朝日日本歴史人物事典 「慶政」の解説

慶政

没年:文永5.10.6(1268.11.11)
生年文治5(1189)
鎌倉時代の僧,説話集編者。証月(勝月)房と号す。九条良経の子で道家の兄だが,嬰児のとき障害を負い仏門に入ったとの所伝がある。九条家とのかかわりの深さは事実である。園城寺の能舜,慶範,延朗に師事,明恵にも学ぶ。承元2(1208)年ごろ西山に隠棲。渡宋し,建保5(1217)年宋から明恵に音信を送る。一切経などを将来,『証月上人渡唐日記』(佚書)を著す。『続本朝往生伝』などの往生伝を書写し,承久4(1222)年仏教説話集『閑居友』を完成する。西山に法華山寺を創建,嘉録2(1226)年『法華山寺縁起』を著し,延応1(1239)年には道家の病平癒の祈祷における天狗の託宣を『比良山古人霊託』に著す。ほかに『渡宋記』の書写や『漂到琉球国記』などの著作がある。『続古今和歌集』以下の勅撰集に22首入集,釈教歌が多い。『沙石集』に説話が載る。仏道者としての自覚を貫いた生涯である。<参考文献>図書寮叢刊『諸寺縁起集』,橋本進吉「慶政上人伝考」(『日本仏教全書』),平林盛得「慶政上人伝考補遺」(『国語国文学』1970年6月号)

(今村みゑ子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「慶政」の意味・わかりやすい解説

慶政【けいせい】

天台宗寺門派(園城寺)の僧。名門九条家に生まれたが,幼時乳母の手から落ち背骨が突出するなどしたので出家。京都西山に法華山寺を興し,1217年に渡宋し《証月上人渡唐日記》(散逸)を著す。帰国後は〈往生伝〉の書写を精力的に行っている。歌をよく詠み,明恵親交があった。《法華山寺縁起》《閑居友》《比良山古人霊託》などの著作がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「慶政」の解説

慶政 けいせい

1189-1268 鎌倉時代の僧,歌人
文治(ぶんじ)5年生まれ。九条良経(よしつね)の子。天台宗。近江(おうみ)(滋賀県)園城(おんじょう)寺の能舜らに師事。建保(けんぽ)5年南宋(なんそう)(中国)にわたる。京都に法華山寺をひらき,また法隆寺の修理,維持につくした。歌は「続古今和歌集」などに収録されている。文永5年10月6日死去。80歳。号は証(勝・照・松)月房。著作に「閑居友」「証月上人渡唐日記」など。
【格言など】なにわざにつけても,ひとり侍るばかり澄みたることはなし(「閑居友」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の慶政の言及

【法隆寺】より

… 923‐925年(延長1‐3)に講堂・僧坊の一部が炎上,11世紀以降は西円堂・綱封蔵・西室僧坊などが倒壊したり炎上したが,その多くは再興されて講堂の修理も行われ,また〈法隆寺一切経〉が勝賢や林幸らの勧進で整備された。鎌倉時代には後白河院・源頼朝の帰依もあったが,中期以降に顕真得業による太子信仰の高揚や慶政による修理が行われ,慶長年間(1596‐1615)と元禄年間(1688‐1704)の修理を経て,昭和大修理に至った。 西院伽藍の東方に隣接する東院伽藍は上宮王院といい,八角円堂の夢殿と伝法堂・絵殿・舎利殿よりなる。…

※「慶政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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