大津市の中央部、琵琶湖西岸の
〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉
創建は伝説的な部分が多くはっきりしないが、三井(御井)の名は長等山を形成する花崗岩質の土壌から湧き出る豊富な泉水に由来するもので、「日本書紀」天智天皇九年(六七〇)三月九日条にみえる「山御井」は長等山の御井とされ、古くから聖水の信仰が根づいていたようである。「寺門伝記補録」には天智・天武・持統の三天皇が誕生の折、この水を産湯に用いたことから御井と名付けられたという伝承を載せる。このような自然に恵まれた地は豊かな湧水と山麓からの景勝とがあいまって、邸宅を営むには適地であったらしく、「扶桑略記」天武天皇一五年(六八六)条の「大友太政大臣子大友与多、大臣家地造御井寺、今三井寺是也」という記事や、「寺門伝記補録」所載の草創縁起譚などにみえる大友与多王の邸宅を寺にしたという伝えは、まったく根拠のない話でもなかった。また金堂のすぐ西脇にある閼伽井の石組は奈良時代の庭園遺構の一部とする見方も出されている。
園城寺の草創にまつわる縁起では、天智天皇が大津に遷都した際、都の近くに一寺を建立し、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
滋賀県大津市にある天台寺門宗の総本山。山号は長等山。俗に三井寺といい,山門(延暦寺)に対して寺門ともいう。寺伝では,大友皇子の発願にもとづき,その子大友与多麿が686年(朱鳥1)に開創したというが,これは山門に対抗するための付会説で,実際には出土の瓦から,当地に住む大友村主(すぐり)氏の氏寺として白鳳時代に創建されたものであろう。寺の東方に井泉があり,天智・天武・持統3帝の産湯を汲んだので三(御)井寺と呼ぶという。859年(貞観1),この地を訪れた智証大師円珍が,檀越大友都堵牟麿(つとむまろ)と住僧教待の委託をうけ,当寺を再興。まず唐院を建てて唐より持ち帰った経論を収蔵した。866年には大友黒主の申請で天台別院となり,円珍を別当とした。875年に堂舎および新羅明神社を修造。以後,智証(円珍)門徒が別当(のち長吏)職を相承した。円珍の没後,比叡山では慈覚(円仁)門徒と智証門徒が対立し,993年(正暦4)智証派の余慶が法性寺座主に任ぜられたことから対立が激化。同年8月,慈覚派は山上の智証派の坊舎を破壊したので,慶祚以下智証派1000余人は逃れて園城寺に拠った。ここに天台宗は山寺両門に分裂し,長い抗争史をくりひろげる。1039年(長暦3),寺門の明尊が天台座主に補任されると,山門の大衆はこれに反対して関白藤原頼通第に強訴し,園城寺も戒壇の別立を奏請した。81年(永保1)6月山徒は当寺を襲撃して焼き払った。その後も座主問題や戒壇問題をめぐって対立し,1121年(保安2),40年(保延6),63年(長寛1)と,たびたび山徒の焼打にあったが,加持祈禱の法験を誇る当寺は,皇室・摂関家の庇護のもと,堂舎をすぐ復興した。院政期には近江・山城を中心に多くの寺領の寄進をうけ,全盛をきわめた。皇族の入寺するものも多く,聖護院,実相院,円満院などの門跡が次々と成立した。80年(治承4),以仁王が挙兵して当寺に拠ったため平氏に焼かれたが,源頼朝は当寺を篤く崇敬し,再興を助けた。山寺両門の抗争はその後も続き,1214年(建保2),64年(文永1),1319年(元応1)にも焼打にあい,山門のために焼かれること前後7度に及んだ。36年(延元1・建武3),細川定禅の陣所となって新田義貞軍に焼かれ,1552年(天文21)にも佐々木氏のために焼亡。95年(文禄4),豊臣秀吉は当寺を破却し,寺領を没収したが,まもなく還付し,再建に着手。徳川氏も保護を加え,諸堂院も復旧された。近世の寺領4619石。72万m2に及ぶ広大な寺域を3院(北・中・南)・9谷に分かつ。金堂,唐院,三重塔,釈迦堂,鐘楼,仁王門などの主要堂塔は中院にあり,たび重なる受難の歴史を反映して,いずれも近世初頭以後の再建もしくは移建である。鐘楼の鐘は三井晩鐘として有名。琵琶湖を一望のもとに見下ろす南院山上には観音堂があり,西国三十三所第14番札所で,本尊は如意輪観音。北院には新羅善神堂などがある。
執筆者:薗田 香融
現在の伽藍は主として近世初頭に形づくられた。寺宝は智証大師円珍ゆかりのものが多く伝えられており,絵画の《不動明王像(黄不動)》,墨画《五部心観》,木彫の智証大師像2体,新羅明神像,書籍では大師の入唐,求法,伝法,将来経典等を一括した文書・典籍などが国宝となっている。建造物で最も古いのは,1340年(興国1・暦応3)の足利尊氏による再興時の鎮守社,新羅善神堂(国宝)である。大型の三間社流(ながれ)造にさらに1間の向拝を付けた形式になり,華やかな植物文様の透彫欄間を外陣まわりに飾り,力強い舟肘木(ひじき),端正な全体の形姿で知られる。1595年豊臣秀吉は弥勒堂を延暦寺再興のために西塔釈迦堂として移建するなど,当寺をつぶそうとした。しかし秀吉が没すると,北政所は遺命により寺領を復し,他からの移建もまじえて急速に復興をはかる。中心の金堂(国宝)は99年(慶長4)の墨書があり,軒の工事は職人を競争させるなど,城普請のように急がせている。翌年閼伽井(あかい)屋ができ,1601年の三重塔(旧大和比曾寺東塔),大門(旧近江常楽寺仁王門)と02年の一切経蔵(旧周防国清寺)は徳川氏や毛利氏の力により移建された。大門は棟札写によれば1452年(宝徳4)の建立であるが,秀吉により伏見城に移されたのをもってきたと伝える。鐘楼は1602年に完成した。中心伽藍の周囲には多くの院があり,その多くもこのころの再建である。大師をまつる唐院は1599年に大師堂,灌頂堂などが完成している。これに接する勧学院は一山の学頭の役宅で,北政所が毛利輝元を奉行として1600年に復興した。3列8室の大型の客殿(国宝)があり,南面車寄は軒唐破風(からはふ)を設け,これに続けて横連子(れんじ)窓や両折戸をもつ中門を突き出している。内部は広縁に面して狩野光信筆と伝える金碧障屛画で飾られた広間,上段間があり,桃山時代の代表的な客殿建築である。光浄院客殿(国宝)も1601年の建築で,広縁回りの扱いがいっそう洗練されている。また縁先の山水庭園は小規模ながら保存がよく名勝に指定されている。
執筆者:益田 兼房
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大津市園城寺町にある天台宗寺門(じもん)派の総本山。通称三井寺(みいでら)。比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)を山門というのに対し、寺門と称する。山号は長等山(ながらさん)。天智(てんじ)、弘文(こうぶん)、天武(てんむ)の3天皇の勅願により大友与多(よた)王が田園城邑(じょうゆう)を投じて長等山に建立、長等山園城寺と称したと伝えられる。白鳳(はくほう)時代の古瓦(こがわら)が出土するので、その時代に大友氏の氏寺として建てられたものではないかともいわれる。境内に天智、天武、持統(じとう)3帝の誕生水があったので、御井(みい)の寺といわれたとも、円珍(えんちん)(智証(ちしょう)大師)が霊泉の水を三部灌頂(かんじょう)の法水に用い、弥勒菩薩(みろくぼさつ)がこの世に下り、人々を救済するという弥勒三会(さんえ)の暁を待つ意味で三井寺とよばれたともいう。また、858年(天安2)に唐から帰国した円珍のもとに、新羅明神(しんらみょうじん)が姿を現し、将来した典籍を収めるによい場所として三井寺へ円珍を伴うと、162歳の教待(きょうたい)という老僧が迎え、大友与多王の子都堵牟麿(ととむまろ)が寺を円珍に献じたと伝えられている。
天台宗では慈覚(じかく)大師(円仁(えんにん))系と智証大師系が並び行われ、両派から座主(ざす)が出ていたが、平安時代中期、座主に任ぜられた余慶(よけい)を慈覚大師系が拒否して両派の抗争が盛んとなった。ついに993年(正暦4)智証大師系の僧は園城寺へ入り、比叡山の慈覚大師系の山門と、園城寺の智証大師系の寺門の両派に分裂し、僧兵の跋扈(ばっこ)もあって互いに焼き打ちをしたりして争ったため、園城寺は平安時代に四度焼かれている。また、源氏と結び付いて後白河(ごしらかわ)法皇などの反平氏運動に協力したために堂舎を焼かれたが、源頼朝(よりとも)以下の保護を受けて再興した。智証大師派は寺門系の僧を受戒させるため、園城寺にも戒壇を新設しようとして山門と争い、また足利(あしかが)氏に近づいて北畠(きたばたけ)氏、新田(にった)氏に焼かれるなど、何度も焼かれている。1595年(文禄4)に豊臣(とよとみ)秀吉の怒りに触れて寺は壊され、寺領を没収されたが、のちに復興が許され、江戸時代には、北院・中院・南院の3塔に59院、5別所に25坊があった。門跡(もんぜき)寺院として円満(えんまん)院、聖護(しょうご)院、実相(じっそう)院をもち、東大寺、延暦寺、興福寺とともに京畿(けいき)の四大寺の一とされている。
[田村晃祐]
毎年5月16日に新羅善神(しんらぜんしん)堂で鬼子母神(きしもじん)祭が行われるが、子供の成長を祈って団子を神前に供えるので千団子ともいわれる。また、7月第2土曜日に札焼(ふだやき)、8月9日に観音菩薩(かんのんぼさつ)の千日会(せんにちえ)が行われる。
[田村晃祐]
建造物では、秀吉の北政所(きたのまんどころ)によって1599年(慶長4)竣功(しゅんこう)した園城寺金堂、翌年竣功の勧学院客殿、翌々年竣功の光浄院客殿(以上国宝)があり、桃山時代の代表的建築とされている。園城寺の鎮守の一つで、新羅明神を祀(まつ)る新羅善神堂(国宝)は、滋賀県に多い流造(ながれづくり)社殿の代表的なものである。そのほか唐院、閼伽井(あかい)屋、鐘楼、一切経蔵(いっさいきょうぞう)、大門、三重塔、食堂(じきどう)などが国重要文化財に指定されている。絵画、文書には、国宝として平安時代書写の図像「五部心観(ごぶしんかん)」や智証大師関係文書典籍51巻夾2帖(じょう)がある。また円珍が坐禅(ざぜん)中に感見したと伝えられる不動明王画像(黄不動、国宝)があり高野山(こうやさん)の赤不動、青蓮(しょうれん)院の青不動とともに、三大不動明王像の一つとされる。彫刻では、木像智証大師坐像(ざぞう)2躯(く)、新羅明神坐像1躯が国宝。そのほか国重要文化財指定の寺宝が多い。
園城寺には四つの鐘があり、そのうち慶長(けいちょう)の大鐘はいわゆる「三井の晩鐘」として名高い。また「弁慶(べんけい)の引摺(ひきずり)鐘」は、弁慶が奪ったが、「いのう」(帰りたい)と鳴るので谷底へけ落としたという伝説をもつ。実際には、1264年(文永1)に山法師に奪われ、3年後に幕府の命によって返却されたものである。寺域には弘文天皇御陵、日本古美術の研究者フェノロサの墓がある。なお、西国三十三所第14番札所として知られる南院の山上の如意輪(にょいりん)観音は巡礼観音として名高い。
[田村晃祐]
『上杉文秀著『日本天台史』(1936・破塵閣書房)』▽『天台宗寺門派御遠忌事務局編『園城寺之研究』再版(1978・思文閣出版)』
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三井(みい)寺・寺門(じもん)とも。滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山。長等山と号す。7世紀後半に大友皇子の子,大友与多麿が創建したと伝える。859年(貞観元)円珍(えんちん)が再興して天台別院とし,以後,円珍門徒によってうけつがれた。993年(正暦4)円仁門徒の攻撃をうけた円珍門徒は比叡山を離れて園城寺に拠り,ここに山門派と寺門派が分離。以後天台宗の正統をめぐって長期の対立が続き,山門による7度の焼打をうけた。しかしそのつど皇室・摂関家などの庇護により復興。江戸時代には徳川氏の帰依を得て大いに栄えた。多数の寺宝を所蔵し,「五部心観」「不動明王像(黄不動)」・智証大師関係文書典籍はいずれも国宝。
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
… 平安京時代になると都と隣接した国として,さらに主要な位置を占めた。またそれより少し前の8世紀末に近江出身の最澄が開いた比叡山の延暦寺は,円仁,円珍らによってさらに発展したが,10世紀末以降智証(円珍)派の園城寺(おんじようじ)との抗争を繰り返した。源平内乱期にはこれら寺院勢力が近江源氏と結んで平氏討滅を誘引した。…
…修験道の開祖を役行者(えんのぎようじや),派祖を円珍(智証大師)とし,宗派の基礎は平安末期に固められた。当時の園城(おんじよう)寺には修験を行ずる僧が続出し,熊野三山や大峰山,金峰山(きんぷせん),葛城山などに抖擻(とそう),参籠修行したが,その先駆者であった増誉(ぞうよ)が1090年(寛治4)白河上皇初回の熊野詣先達を務め,その功績によって初代熊野三山検校に補せられた。増誉は洛東に聖護院を建て,熊野権現を勧請して修験道の鎮守としたが,その後を継いだ行尊,覚宗,覚讃なども上皇,女院,公卿の熊野詣の先達を務め,同様熊野三山検校に補せられ,さらに覚讃以後は洛東新熊野社(いまくまのしや)の検校をも兼ねることになり,園城寺修験は修験道界に確固たる地位を築いた。…
※「園城寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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