極楽浄土への往生を願い,浄土に往生した人びとの略伝・行業と臨終時の奇瑞(きずい)を簡略に記した伝記集。中国唐代初期に弘法寺迦才の《浄土論》巻下に20人の往生者を収めたのが最初で,往生伝として独立したのは中唐の文諗・少康による《往生西方浄土瑞応伝》からであり,宋代以降多量に撰述された。日本では慶滋保胤(よししげのやすたね)が源信に深く共感して寛和年間(985-987)に《日本往生極楽記》を撰した。続いて平安時代末期までに大江匡房(まさふさ)《続本朝往生伝》,三善為康《拾遺往生伝》《後拾遺往生伝》,蓮禅《三外(さんげ)往生記》,藤原宗友《本朝新修往生伝》,如寂《高野山往生伝》が撰述され,浄土願生者のテキストとして受容された。また往生者の話は説話集に再録され,中古~中世の説話文学に影響を与えている。中世往生伝はほとんど編纂されず,浄土宗系の行仙の《念仏往生伝》残簡が伝わるのみである。近世に入って往生伝の出版が行われ,浄土宗・浄土真宗の僧により,自宗内の往生者を集めた往生伝の編纂がさかんに行われた。自宗の布教を意図し,和文体で書かれたものが多い。とくに浄土真宗では江戸時代末期に《妙好人伝》が著され,念仏者の理想像とされた。
執筆者:西口 順子
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さまざまな善業、とくに念仏を修することで阿弥陀仏(あみだぶつ)の浄土に往生した人々の伝を集めた書。浄土教思想が貴族社会に浸透するなかで、中・下層貴族の間には此岸(しがん)的なものへの諦観(ていかん)が生み出されたが、そうした土壌を背景に10世紀の末ごろ、往生伝の嚆矢(こうし)である慶滋保胤(よししげのやすたね)の『日本往生極楽記(ごくらくき)』が撰述(せんじゅつ)された。その序が唐の迦才(かさい)の『浄土論』を引くように、わが国の往生伝には唐・宋(そう)のそれを範型、先例とするものが少なくない。院政期以後、大江匡房(おおえのまさふさ)『続本朝往生伝』、三善為康(みよしためやす)『拾遺往生伝』などが相次いで編纂(へんさん)されたが、『続本朝往生伝』が世俗的な身分秩序を配列原理とするなど、そこには否定さるべき此岸の価値が導入され、『日本往生極楽記』との間に一種の屈折をみいだすことができる。その編纂は、鎌倉時代の『念仏往生伝』を最後に中絶するが、江戸時代に入ると浄土宗が幕府に外護され、ふたたびさまざまな往生伝が生み出されるようになった。
[多田一臣]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
極楽に往生した人々の伝記を集めた編纂書。日本の往生伝は平安時代と江戸時代に多く制作された。平安時代には,中国の往生伝にならって慶滋保胤(よししげのやすたね)が著した「日本往生極楽記」をはじめ,文人たちの手になる大江匡房(まさふさ)「続本朝往生伝」,三善為康(みよしのためやす)「拾遺往生伝」「後拾遺往生伝」,蓮禅(れんぜん)「三外(さんげ)往生記」,藤原宗友「本朝新修往生伝」などがあり,それぞれ先行書を補足・継承している。これらに収められた往生人の行業は法華・念仏などの別を問わず,特定の宗派に偏らない。江戸時代には幕府の保護をうけた浄土宗,および一向宗の発展を背景に「緇白(しびゃく)往生伝」などが刊行された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
… くしき符合というべきであるが,日本においても〈死の思想〉が急速に広まったのは王朝時代の末期から鎌倉時代の初期にかけてであった。古代末から中世的世界の形成期にかけて姿を現したといえるが,具体的には各種の〈往生伝〉の編述(王朝末期)および《地獄草紙》や《餓鬼草紙》などの六道絵の制作(鎌倉初期)となって実を結んだ。そしてそのような動きに大きな影響を与えたのが源信の《往生要集》であったことは重要である。…
※「往生伝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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