九条家
くじょうけ
藤原氏北家(ほっけ)嫡流。五摂家(ごせっけ)の一つ。関白忠通(ただみち)の三男で、京都九条殿に住んだ兼実(かねざね)が、鎌倉初期に源頼朝(みなもとのよりとも)と結び、摂政(せっしょう)・関白になって興した家。近衛(このえ)家と並んで五摂家の双璧(そうへき)となった。同じ五摂家の二条(にじょう)・一条(いちじょう)家は兼実の孫道家(みちいえ)から分かれた家である。広大な家領(けりょう)を所有し、代々摂関として近世末まで宮廷政治の重鎮であった。鎌倉幕府の摂家将軍といわれる頼経(よりつね)、頼嗣(よりつぐ)は九条家出身である。江戸時代の家領は2000石、のち3000石。幕末関白となった尚忠(ひさただ)は佐幕派となり、反対派のため辞職。孫道孝(みちたか)は明治維新に官軍の奥羽鎮撫(おううちんぶ)総督として活躍、明治維新後公爵を授けられた。貞明皇后(ていめいこうごう)は道孝の四女。豊富な文書典籍は現在宮内庁書陵部に蔵され、その一部は同部編『九条家文書』として刊行された。
[飯倉晴武]
九条家の所領荘園(しょうえん)など。摂関家領のうちには、代々の氏長者(うじのちょうじゃ)が引き継ぎ管理する殿下渡領(でんかのわたりりょう)と、処分可能な私領としての狭義の家領がある。摂関家領の荘園群は藤原忠実(ただざね)・忠通(ただみち)の時代に集積と整備が進み、鎌倉初期、兼実(かねざね)・基通(もとみち)のときに九条・近衛(このえ)両家が分立する。九条家領の中心となったのは、兼実の妹皇嘉門院聖子(こうかもんいんせいし)が1180年(治承4)に兼実の子良通(よしみち)に譲った所領で、その内訳は、最勝金剛院(さいしょうこんごういん)領11か所、九条領34か所、近江国(おうみのくに)寄人(よりゅうど)、3か国(和泉(いずみ)、摂津(せっつ)、近江)大番舎人(おおばんとねり)などであった。鎌倉初期の政局と絡んで、九条・近衛両家の対立は激しいものがあったが、兼実は1204年(元久1)に至って惣処分状(そうしょぶんじょう)を作成し、所領の保全を図っていく。総計60か所の荘園のうち、宜秋門院任子(ぎしゅうもんいんじんし)(後鳥羽天皇(ごとばてんのう)の中宮)に47か所、摂政(せっしょう)良経(よしつね)に3か所、御堂御前(みどうごぜん)(故良通の室)に9か所、竜姫御前(たつひめごぜん)に1か所が、それぞれ与えられている。任子への大量の処分は、政治的配慮を秘めたものと考えられる。嫡子良通は翌々1206年(建永1)に没し、九条家領はあげて道家(みちいえ)に継承された。道家のとき九条家は極盛を迎えるが、その晩年は西園寺(さいおんじ)家の隆盛などもあって振るわず、1250年(建長2)その所領の確保のために惣処分状が作成される。その総計は112か所に上り、宣仁門院彦子(せんにんもんいんげんし)(四条天皇の女御(にょうご))4か所、近衛北政所(このえのきたのまんどころ)仁子(兼経の室)2か所、九条禅尼(ぜんに)(教実(のりざね)の室)10か所、尚侍殿(佺子)17か所、前摂政(一条実経)40か所、右大臣(九条忠家)26か所、姫君2か所、東福寺3か所、最勝金剛院6か所、普門院1か所、光明峯寺(こうみょうぶじ)1か所がその内訳である。なお、このうち一条実経に譲与された所領は、のち一条家領成立の際にその基礎となり、九条忠家に譲与された所領が、のちに女子一期分(いちごぶん)を吸収して九条家領の中心となっていった。
以後、鎌倉末から南北朝期の動乱のなかで、家領は徐々に衰微し、1396年(応永3)にはわずかに16か所が当知行(とうちぎょう)分として残存するにすぎない。戦国時代末期の家領目録には21か所を載せているが、すでに形骸(けいがい)を示すにすぎなかった。
[棚橋光男]
『飯倉晴武「九条家領の成立と道家惣処分状について」(『書陵部紀要』29号所収・1978・宮内庁)』
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九条家 (くじょうけ)
藤原氏北家の嫡流,五摂家の一つ。家号は始祖兼実の殿第に由来するが,また九条の坊名にちなんで陶化ともいう。平安時代後期に入って,摂政・関白と氏長者の地位は藤原道長の子孫御堂流の嫡流に定着したが,源頼朝は平家を討滅すると,平家と縁故の深い摂政近衛基通をしりぞけ,基通の叔父に当たる兼実を摂政,氏長者に推挙した。兼実はその後,土御門通親との権力争いに敗れて失脚したが,通親の没後,兼実の男良経が摂政となり,九条家の分立を確実にした。良経の男道家は,源頼朝の妹婿一条能保の女を母とし,能保の女婿西園寺公経の女婿となって源氏将軍家と縁故を深くした。そのため道家は,源実朝の横死により将軍家が断絶すると,幕府の要請によって公経の外孫に当たる頼経を鎌倉に送って将軍家を継がせ,さらに承久の乱後は公経と提携して京都政界を制圧し,みずから再三摂関に任じたばかりでなく,教実,良実,実経の3子を相ついで摂関の座につけ,九条家の全盛時代を築きあげた。しかし1246年(寛元4)頼経が名越(北条)光時の乱に連座して京都に送還されたため,摂政実経も解任,閉門し,道家は政界から引退した。こうして九条家から良実流の二条家と実経流の一条家が分立したが,その後も九条家は他の摂家と並んで摂関,氏長者の任につき,江戸時代末に至った。幕末に関白となった尚忠は,安政年間の難局に処して奔走し,とくに公武合体策を推進したので,幕府は尚忠に1000石の加増をもって報いた。その孫(実は子)道孝は陸奥鎮撫総督として活躍し,のち公爵を授けられた。明治天皇の養母英照皇太后は尚忠の女であり,大正天皇の皇后貞明皇后は道孝の女である。
家領
1186年(文治2)九条兼実が摂政,氏長者に就任した際,前摂政基通は氏長者の管領する氏院氏寺領は譲渡したものの,一般家領は手放さなかった。兼実を後援する源頼朝は再三家領の譲渡を主張したが,基通を庇護する後白河院は頑強に抵抗して,頼朝の申入れを拒否した。そのため九条家領は,兼実の姉皇嘉門院より伝領した30余ヵ所の所領を中心として出発することになった。しかし兼実の孫道家が九条家全盛時代を築き,所領も激増して,その惣処分状には100ヵ所を超える所領を載せ,二条,一条両家分立後も九条家に残された所領は50余ヵ所を数えた。なお,江戸時代に幕府から与えられた知行高は2043石余(尚忠の加増以前)であった。
文書
また九条家では,兼実の日記《玉葉》をはじめ,《延喜式》《西宮記》など,古写の貴重な典籍,記録,文書を多数伝蔵し,その大部分は現在宮内庁書陵部に架蔵されている。それらの中には,《琉球国記》や《渡宋記》のごとく他に伝本のないものも多く,儀式書や記録類は平安~鎌倉期の書写にかかるものが大半を占め,また荘園関係の古文書は公家領関係の最もまとまった文書群であり,さらに江戸時代末の国事関係記録文書は幕末史の基本史料の一つである。
執筆者:橋本 義彦
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九条家
くじょうけ
藤原氏北家嫡流のわかれで,五摂家(ごせっけ)の一つ。関白藤原忠通の三男兼実が父から九条の地を譲られ,邸宅を構えて九条と称したことに始まる。兼実は源頼朝の後援を得て摂関となり公家政権を主導したが,源通親との争いに敗れて失脚。通親の没後,兼実の子良経が摂政に任じられ,摂関家としての家格が固まった。良経の子道家は,将軍頼経の父として幕府と結び,承久の乱後の公家政権を制して九条家の全盛期を築いた。道家の次男良実は二条家を,四男実経は一条家を分立。その後ほかの摂家と並んで摂関の地位についた。江戸時代の家禄はおおむね2043石余,安政期に1000石加増。幕末の関白尚忠(ひさただ)は公武合体策を推進。維新後,道孝のとき公爵。「九条家文書」「九条家記録」を伝える。
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九条家
くじょうけ
藤原氏の一支族。五摂家の一つとして代々摂政,関白に任じられることが多かった。関白藤原忠通の子兼実に始る。兼実は源頼朝と提携し,朝廷における親幕府勢力の第一人者として京都で活動したが,苦境のうちに没した。兼実の孫道家も幕府と結び,子の頼経を4代将軍として鎌倉に送った。道家の男子のうち良実は二条家の祖,実経は一条家の祖となり,兼実の兄基実の子孫である近衛,鷹司両家と合せて五摂家を形成した。明治維新を経て道孝のときに,華族令により公爵を授けられた。
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九条家
くじょうけ
藤原北家の分流で,五摂家の一つ
始祖兼実 (かねざね) (藤原忠通の3男)が京都九条殿に住んでいたため,近衛家に対し九条家と呼ばれた。鎌倉幕府とは兼実以来関係が深く,頼経・頼嗣父子は将軍(摂家将軍)となった。
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世界大百科事典(旧版)内の九条家の言及
【一条家】より
…家号は始祖実経の殿第に由来するが,また一条の坊名にちなんで桃華ともいう。鎌倉時代の初め,藤原摂関家は,忠通の後が基実流の近衛家と,兼実流の九条家に分かれたが,九条家は,兼実が源頼朝の推挙により摂関の座について以来,源氏将軍家との結び付きを強め,さらに兼実の孫道家に至って全盛期を迎えた。道家はみずから再三摂関に就任したばかりでなく,教実,良実2子を相ついで摂関に任じ,さらに1246年(寛元4)良実に強要して関白を弟の実経に譲らせ,ついでこれを摂政とした。…
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