戸崎城跡(読み)とさきじようあと

日本歴史地名大系 「戸崎城跡」の解説

戸崎城跡
とさきじようあと

[現在地名]野尻町東麓

東麓ひがしふもと地区の東方、戸崎川南岸にある。土崎城とも記される。築城の時期は不明。永禄一一年(一五六八)頃の「分国中城主揃事」には戸崎城主肥田木四郎左衛門尉の名がみえ、伊東氏四十八城の一であった(日向記)。元亀三年(一五七二)五月四日の木崎原合戦では地頭肥田木四郎左衛門、「とさき衆」の丸目伝内が討死している(同書、「木崎原合戦頸注文写」真幸院記)。翌四年三月須木すき(現須木村)の米良美濃守らが島津方に降り、真幸まさき口四ヵ所が島津氏の支配下に入ったため、伊東方は野久尾のくび(現小林市)に替えて野尻・戸崎両城を境として守りを固めた(日向記)


戸崎城跡
とざきじようあと

[現在地名]出島村戸崎

戸崎の中央部台地一帯を占め、現在も本丸ほんまる二の丸にのまる城中じようちゆう丸外まると外城とじよう館下たてした根古屋ねごやなどの地名が付近に残っている。自然の地の利を巧みに生かした掻上城で、堀跡も明らかである。城主は小田氏の有力な家臣戸崎氏で、当城は天正元年(一五七三)佐竹氏の攻撃によって落城し、「佐竹家譜」に「天正元年七月廿五日、攻宍倉城、城主菅谷貞次隠岐守納質出降。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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